小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2014年 8月

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アキトの履歴書 53

2014.08.14

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:心おどる青春)
 
 町の青年会は、祇園祭を苦労しながらも団結して行う大きなチームとして、地域に認められていた。
 
祭りでご祝儀を頂いていることで、少々のお金もあり、その使い道は飲食ばかりでなく、
 
皆で楽しむ行事にも回っていた。団体事業ばかりでなく小グループの活動としても役立てていた。
 
 当時の一般賃金は、1ヵ月 8,000円から9,000円位だったが、(注:1960年代半ば)
 
出来るだけ個人の持ち出しをなくし、色んな行事に使ったので楽しいことも多々あった。
 
 ドライブにも何回か行った。あの頃、乗用車は村内でも3~5台位しかなく、ペーパードライバーが多い時代。
 
レンタカーを借り、若干の運転経験がある人の運転でもって、“遠乗り”と称して出かけるのだ。
 
この頃には、我が家にも父が東京の親戚から買った“セコ”の乗用車セドリックがあり、ドライブには好都合。
 
伊那市でレンタカーを2台借り、合わせて3台ほどで皆とよくドライブした。
 
木曽の目覚めの床、蓼科、白樺高原、戸隠バードライン、善光寺等々。当時ドライブは流行の最先端。
 
夢のようなひと時だった。
 
 ダンスも流行った頃で、伊那のエスカイヤ(その昔、ギター類を製造していた)の倉庫にもよく行った。
 
私は全くの素人だったが、仲間の内に知っている者がいて、土曜日の夜になると数人が私の家に集まってきては
 
車に乗り皆で出かける。
 
 たしか、ダンスホールの近場に小さなお社があり、よくそこに車を駐車していた。
 
初めての時は私は運転手として行ったので、“ゲタ履き”だった。薄暗い建物の中に入って見学していると、
 
ダンスにも色々の曲があり、ブルース、ルンバ、ワルツ、ジルバ、マンボ等々を、恥も外聞もなく、
 
ペアになった若者が真剣に踊っていた。
 
 私みたいな者でも、空いている(相手がいない)女性の前に行って
 
「お願いします」と言えば、誰でも相手をしてもらえたのを覚えている。
 
とは言っても、初っ端に赤っ恥をかいた私は少し位のステップを覚える気になり、
 
ダンスの初心者向ステップの本(中川一家)を買って、少しだけかじってから挑戦したのはいうまでもない。
 
 青年会でも小学校の体育館を借りて、ダンスパーティーを催すなど流行のはしりをした時期でもあった。
 
 映画は宮田劇場のオールナイト(土曜日の夜だった)もあり、我々若者には、新鮮な出会いや体験ばかり。
 
実に楽しい思い出である。
 
人との交流があって、つかの間の息抜きが出来るささやかな青春時代だ。
 
 

 

アキトの履歴書 52

2014.08.13

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~革新に名を借りた紛い物(まがいもの)の正体)
 
 赤い霧一掃を、私達町青年会で徹底し、中立無党派を推進したため、
 
(村一番の大所帯である)町青年会が抜けた村青年会の全体はタガの外れた状態となり、
 
村中に青年会のあり方についての大論争が巻き起こった。
 
この後数年で村中の青年会・各単会が消滅することになるとは、私達も全く考えてもいなかった。
 
 離脱の象徴となった一件は、町青年会員全員と村、郡の連合役員幹部との討論会だった。
 
自主独立のはずの各青年会単会へ、左翼かぶれの行事等の参加・協力の押し付けはおかしい、
 
とんでもない状況である。
 
今後はこの場以降、一切の係わりを断つ。という総会を開いた。
 
 色々な発言があったが、決定的な質問となったのは、
 
『皆さんは一体、何を目標にして、どんな世の中にしたいのか。それは、実際に日本に合うのか、出来るのか。
 
答えをちゃんと言って下さい。』
 
であったと思うが、彼らは全く返答が出来なかった。
 
 こんな人たちの押し付けはまっぴらごめんだという事で、町青年会は村全体の組織から独立した。
 
 この年の冬、私が戸隠に年末年始の連休中、毎年のように何人かでスキーに泊まり込みで行って帰ってみると、
 
小田切氏が血相を変えて家にきて、
 
「小木曽、えらいことになっているぞ」と言う。
 
 追い詰められた共産党かぶれの人等が、いわゆる“アジビラ”を、事もあろうに村内と近隣の市町村の一部にまで、
 
新聞の折り込みチラシの全戸配布の要領よろしく配っていた。
 
文中には名指しの“小木曽”がゲラ刷りされている。
 
全く身に覚えのない文面にビックリする他なかった。それは、
 
・・・・・
 
私がある国会議員からお金を受け取り、共産党(の青年部組織)を貶して(けなして)大混乱に陥れた
 
・・・・・
 
だったが、全くのデタラメ、架空の話で思わず笑っちゃうほどの内容に、
 
たまげたと同時にバカな連中だとあきれたのだった。
 
 私の名前と、全く知らない国会議員の名前まで挙げて、書いてあるそのビラを、いつかの証拠として、
 
しばらくの間手元に残してはみたが、相手するにあまりにバカバカしく、
 
村民の内でも取り立てて話題にする者もいないようだった。
 
 このことは、私が、早く青年会を卒業して身を固め仕事に精を出したほうが良い、
 
こんなバカな連中と付き合うのは御免だ。と思う一因となった。
 
 中越、大久保以外の各単会の方々から、
 
『新しく青年会組織を発足して会長を』とも言われたが、固くお断りを通した。
 
多少恨みを持った方もいたと思うが、私たちの年代以降、
 
ここ宮田村で、共産党が表立った活動を青年会では出来ないこととなり、結果良かったと考えている。
 
 今から半世紀ほど前の話。私が21、2歳の頃のことだ。
 
 
(注:1964、65年頃)
 
(意見には個人差があります。不定期で連載。回数は未定)
 
 

 

アキトの履歴書 51‐2

2014.08.12

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年会と政治活動~2)
 
 それは確か、
 
“原水爆禁止広島大会”とやらに、共産党、社会党の主導に染まった連中の命令か指示なのか、に従って、
 
“参加費用を捻出するため、各部落ごと、資金カンパをせよ”
 
との話があり、青年会員に対して各地区、班割りで、一人ずつが数十軒を訪問し、
 
一口幾らでも良いのでお金を集める旨の指示があった。
 
当時、私も何も考えなしに全く見ず知らずの家にまで廻らされた。
 
その時、伺ったお宅で印象に残っているのは、障子はなんともボロボロで、応対に出てきた母親とおぼしき方の、
 
いかにも弱々しい姿であった。
 
役目上、『いくらでも良いので』と、お金の無心を切り出し、5円玉と2~3円を頂戴してしまった。
 
そのお宅から出てきた私は、
 
“何でこんなことまでして、貧乏人からまでお金を集めなくてはならないのか”と、
 
自責の念にかられた。
 
 ここにきて、もう社会党、共産党はとんでもない連中の集まりで、自分勝手な人達で、他人の事情も一切構わず、
 
ひどいことを平気でするものだと憤った。
 
 これ以降、絶対に左翼のいう事は聞かないぞ、と決意をした。
 
本当に広島へ行きたいのなら、手弁当で行くべきだし、お金が必要なら田畑を売ってでも行けばいいではないか。
 
 津島神社の前に貸切バスが来て、皆で集めたお金で、ピクニックか旅行気分で出かける姿がありありと見えてきて、
 
とても、腹を立てずには居られなかった。
 
 それから後の正月休みに、小田切村長宅にK君と二人で訪問した。奥さんが出てきて
 
『昼間飲んでしまって、今は横になっている(寝ている)』
 
と言われたのだが、若い勢いそのままに、無理に起こして面会させてもらった。ご本人が起きてきて顔を出し、
 
『おお、よく来てくれたな。まあ、正月だから上がれ。』
 
『(奥さんに)酒を出せ』
 
と、酒まで出して勧めてくれ、この時、村の青年会の左翼への傾斜等、現実の話をかなりした。
 
そして、
 
『私どもの「町青年会」は社会党、共産党の団体ではないので、
 
郡連かぶれの村の青年会組織からは離脱する』旨の話をした。
 
 しかし、これが元で村中の噂となり、その影響は他部落にも波及し、次々に左翼から離れる動きとなって
 
“赤い霧一掃”と呼ばれることになる。
 
  
(意見には個人差があります)
 
 

アキトの履歴書 51

2014.08.11

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年会と政治活動)
 
 私が20才になって初めて、国政選挙で選挙権を持ち投票したのは、町の亀屋の主人、小木曽幹夫氏の推挙する
 
吉川久江(キウエ)氏。農業関係の国会議員だった。
 
 成人式が終わるとすぐに、私の家に来て、親父に話をしていった。私も、あの当時は何も知らずに
 
言われるがまま投票していた。国会議員として当選した後日、記念の品(バックルに菊のご紋の付いたベルト)を
 
頂いた事を憶えている。その頃は中選挙区制で、この南信地方には3~4名の国会議員がいた。
 
主な“縄張り争い”は、岡谷・諏訪地区、上伊那地区、下伊那地区で、それぞれに地盤を持った人達で代表が決まる。
 
下伊那は中島がん、上伊那は吉川久江、諏訪地区は小川平二、と、定番の方々が決まっていたようだ。
 
 この頃は、岡谷の共産党を標榜する林百郎氏が、各地区で今にいう“ドブ板選挙”を進め、
 
労組を廻って支持を大きく伸ばして行った時代でもあった。
 
労組のある大きな会社へ乗り込んで歩くスタイル、いわゆる全国区的な選挙活動である。
 
そのうちに、私のところの内職工場の中にまで、襷(タスキ)がけのまま本人が入り込んで、
 
やたらに握手をして去って行った。
 
 これには親父も驚くほどで、各地区への支持の浸透と広がりは、大変な勢いであったものと想像出来る。
 
しかも、おかしな事には、青年会の郡連役員になっている人達は、彼を応援する組織の中に組み込まれており、
 
各単会の長より偉い位置付けの様子であったが、こちらはそれどころではなかった。
 
 私ども町青年会では祇園祭を担うという一大行事が控えており、そんな
 
『共産党だ』、『社会党だ』の話などする暇もない。
 
それでも政治活動をする共産党員がはびこり、私のように特定の思想を持たない無党派の皆には、
 
なんとも反発する事態が起きたのだった。