アキトの履歴書 10

2009.6.6

 
(大学には、やらない)
 
 新聞配達や高校へ通う際は、冬でも雪がなければ下駄で通した。すり減っても、何でも、割れるまではとにかく、
 
その下駄を使用した。いつだったか、途中で割れた時は捨てて、片方裸足でもって飛んで配達したこともあった。
 
おかげで足腰、心臓も自然に鍛えられたのかと思っている。
 
そうして、卒業する頃の新聞配達の収入は、月に1,300円前後位にまでなっていた。
 
 私のクラス、A組には異色の人達が混在していた。50名ほどの生徒がいたが、
 
そのクラスの男女比率がなぜか女子のほうが多かった。
 
入学して間もなく、男子生徒の1人が、そのことで先生に噛み付き、そのまま伊那北高校へと転校していった。
 
(当時の伊那北は進学校として名が知れており、そこへの通学者は圧倒的に男が多かった)
 
その男子生徒いわく、
 
「女がいては勉強の妨げになる・・・」とのことだった。
 
 もう一人、気賀沢君もそう思っていたようだが、周りの人から言われて思い留まったようだった。
 
確か、「大学へ行く気もない女子生徒がこのクラスに入っているは、けしからん」云々が、彼の言い分であった。
 
周りの同級生がそんな連中だったので、私もつられるようにテストの勉強等はかなりしたと記憶している。
 
 担任は松沢美男先生だった。先生は「レバさん」というあだ名で呼ばれていた。
 
このクラスでは、テストの出来る順に情報を知らされて、それぞれの学力レベルを判断し、
 
“お前はどこそこの大学を受けられる・・・”などと目標を立てて、日々の勉強をしていた。仲間の気賀沢君も私に
 
「お前の行けそうな大学は、・・・」
 
などと話をしていた。そして1年の2学期が終わり、3学期になった時、私は担任に呼び出された。
 
「(君を)大学には、やらない」
 
と母が先生に言ったとのことだった。
 
「本当ですか。」
 
と私は先生に聞き返したが、先日の母との懇談で
 
“親の跡を継がせるので、大学進学はさせない。すぐに働いてもらう”と、聞いたと繰り返した。
 
この時点で私は、勉強して進学という夢を捨てることになった。
 
 クラブ活動もせずに頑張ったのにと思ったが、我が家の事情まではよく知らされていなかったので、
 
この時は、“父が私に賭けているのかな”と考えてもみたりした。(昭和30年半ば)
 
 

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