アキトの履歴書 17

2009.8.17

 
(父と家族 3)
 
 繰り返しになるが、父が九州から帰郷してきた時は、日本中が不況の真っ只中であった。
 
東京に出ていた父の弟は二人、一人は警察官、一人は新日鉄に勤めており、その二人に宿の世話を受けながら
 
2ヶ月近く東京中を職を求めて歩き回ったそうだ。
 
その時履いていたゴツイ皮靴は底が抜けてしまったと後で聞いた。
 
 そんな時代だったので宮田に戻りケンメン(後の日発)に入るには
 
何かボイラーの資格でも持っていないとダメだと気が付き、ローソクの灯の下で独り勉強し、通信教育を受け、
 
見事、資格試験に合格。釜たきへの(ボイラー)再就職にこぎつけたのだった。
 
 その後は日商の関係で“鋼(はがね)”が入手できるため、包丁や鎌等を製作した時期もあったようだ。
 
それが後に、ばねの製造へと変遷することになる。
 
父は線ばね製作の見習い第1号として、何人か部下を連れだって横浜本社へ出向き、教育され、
 
ばね職人として歩み始めたのだった。
 
それ以来、ここ宮田には線ばねの工場である日発伊那工場があり、現在に至っている。
 
 次女と四女の姉二人は、私が高校へ行くと同時に結婚し、伊那町へと嫁いでいった。
 
それまで、次女は日発に検査員として勤めており、四女は内職工場を始めていた我が家に呼び寄せられていた。
 
 後に聞いた話だが、父はその頃から始めていた内職工場を、姉に婿を迎えて一緒にやっていこうと考えていたようであったが、
 
二人ともに逃げるように嫁って行くことになり、見事に思惑が外れたのだった。
 
そんなこともあって私に、高校を出たら家に残って仕事を手伝ってほしいとの事情が発生したのだろう。
 
そのために高校の2年になる直前に、担任に話をし、将来に“タガ”をかけたのだ。
 
結局、私は高校を出てすぐに家に残った。
 
 一つ上の五女の姉は、高校卒業後、宮田の郵便局へ就職した。その際、村役場の試験にも受かっていたため、
 
当時の浦野村長に詫びを入れ、局の方へ就いたのだった。
 
弟と妹はそれぞれ高校を卒業し、弟は東京に、妹は岡谷へと単身住み込みで就職した。
 
 卒業後、父の手伝いを始めていた私の、「なんで俺だけがこんな田舎にくすぶってしまったのか」との想いは強く、
 
親にもたびたび反抗した。
 
当時、高卒の初任給は7~8千円、高いところだと1万前後ももらえたようだが、駆けだしの家内工場では、
 
それはもう極貧状況で、私の賃金は1ヶ月500円しか貰えずじまい。
 
これでは新聞配達していた学生時代の1300円のアルバイト代の方がはるかに良かったという有り様。
 
悔しくて情けない、それが現実だった。
 
 だから四女の勇子(いさこ)姉も初期の頃であったから苦労したのに違いない。
 
賃金は従業員の方へ最優先で回され、少し残ったとしても、とにかく設備が何もない状況であったので、
 
全てがそちらに振り向けられ、設備に化けていったのだった。
 
 

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