アキトの履歴書 26

2009.9.21

 
(駆け出し 3)
 
 日本発條㈱伊那工場(宮田村にある)は宮田にあっては唯一の大手企業であり、分工場と言えども
 
上伊那地区においては特別な存在であった。
 
 それ故、経済的にはもちろん政治的にもその影響力は期待されており、国政選挙にあっても
 
地元企業出身の国会議員の応援を歴代の工場長がしていた。
 
 駆け出しの私にとっては、政治や経済のことなど何もわからず、世の中の何もかもに音痴であった。
 
 だから、日発の川口工場長(当時)が海外工場(現在のタイ工場)へ赴任する旨を、
 
チラッと話されたのには正直驚いた。
 
 大手企業はあの時代からすでに海外工場進出の目標や、
 
グローバル化の対応を始めていたということだったのかと察するが、
 
あの頃の私には、ただただ不思議でならなかった。
 
 いずれにせよ、考えるレベルが井の中の蛙の私とは“どえらい違う“と思ったのだった。
 
 当時、父が私に話した「寄らば大樹の陰で良いのだ」という意味が、少しだけ理解出来たような気がした。
 
 けれども、下請け仕事そのものに対しての私の印象は、余り良いものではなかった。
 
しかし、食べて生きていくには何かしら仕事をして稼がなくてはならない。
 
 折しも、父と意見がどうしても合わないために私はストライキを決行した。
 
あの頃、バイクが流行り始めた時代で、
  
「(不満がある。その代わりに)バイクを買ってくれなければ仕事はしない」とダダをこねたのだ。
 
 ところが、思いがけず本田の55CCのバイクを買ってくれたので、仕事を続けることにしたのだった。
 
 この時、父から出た言葉は、
 
「日発は大企業である。今後もし不況になっても日発は最後まで残るだろうし、
 
万一、日発がつぶれる時は日本中が全てつぶれる時だ。だから、辛抱して仕事を覚えてやってくれ」
 
であった。
 
 この時、私はようやく納得をした。
 
これでやる気を出し、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ、と再び腹を決めて、仕事に取り組むようになった。
 
 

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