アキトの履歴書 32

2009.12.11

 
(駆け出し 9)
 
 設備的にも未整備だらけの零細企業。当然、仕事の内容の多くは限られた後加工しか出来ない。
 
それさえも多少の機械、道具立ては必要なので大変な事だった。
 
巻込みは親会社。ウチには後加工の曲げと切断。等に限られてしまう。
 
とても全加工を受注するだけの設備はなかったので、少しずつ、本当に少しずつ
 
与えてくれそうな製品に合わせて設備を整えていくしか手立てはなかった。
 
 そんな状況だったから、父は日発の古い設備を借り受けて、それを利用して新しい仕事を導入するという方策を
 
主体に進める事が多かったのだと思う。
 
 今でこそ特殊部門のばねを成形・加工するためには、フォーミングマシン等、NC制御・コンピューター付の
 
素晴らしい機械が幾らでもあるが、それらが開発される前の時代だったので、
 
ばねの後加工は親会社と言えども大変な工程であり、それなりに手間暇をかけなければならず、
 
はたまた同業他社との競争もあり、それらをカバーするために外注に出す事情があったわけだ。
 
そんな背景もあって、ウチもそれに見合った対応で進行していきつつ、設備も徐々にではあるが整えられていった。
 
 とは言え、日本経済は、
 
私が高校卒業する頃のなべ底景気から高度成長に向かっている兆し(きざし)が見え始めていた。
 
『貧乏人は麦を食え』から急反発、東京オリンピック開催も追い風の心理状況が生まれ、
 
あの頃は日本が戦後の高度経済成長時代へ向かっていく、まさに前夜だった。
 
 新しく『三種の神器』と家電メーカーも華やかに、国民に活力を生むコマーシャルまで登場し、
 
鳴り物入りで浸透していったのである。
 
 

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