アキトの履歴書 43‐2

2013.6.19

 
ここ宮田では、町区に人口が集中して盛っていた昔、生糸・繭(まゆ)を主体にした製糸産業が、
 
全国的にみても特に盛んであり、活力に溢れた一時代を築いた歴史があった。
 
 戦後を経て、これに取って代わった大小様々な起業家たちにより、村の面積は狭いにも係わらず、
 
現在の製造業群のある村へと成長したのである。
 
一時は、働き先が多いので他地域より労働者(サラリーマン)が宮田に流入し、競争が激しく、
 
若者(金の卵たち)は自然の流れで大きな会社、評判の良い職場へと就職した。
 
宮田に限らず日本中、若者は中学を卒業すると都会へ、大企業へと次々に集団就職していった。
 
私が村に残ったこの頃も、長男、跡取り以外は殆んどが県外へ出ていく時代だった。
 
それ故に、村の最大イベントである祇園祭を受け継いでいくのは、人数的にもギリギリで大変な事業だった。
 
飾り道具は日数をかければ出来るものの、祭り当日は、山車、あばれみこしと人足がいる。
  
 会長になった人は、それを仕切るのに相当なプレッシャーがかかった。
 
とにもかくにも一致団結、まとまって協力してもらわないことには出来ない。
 
何年か前の先輩で伊那峡に立った(身投げしようと)ほど思い詰めた人もいた、とも聞いた。
 
 特に、みこしは一人では担げない。動かせない。統率のとれた運行も欠かせない。
 
『お囃子は協力出来ても、みこしは怖くて嫌です』
 
という人も何人かいた。
 
 まさに、あばれみこしと云われる故のことだった。
 
私の姉が青年会に属していた頃は、山車は、みこしの出る前(神輿を練って歩く先。道々)を清める意味があり、
 
14日の昼から町内全部を廻り、翌日の本祭にも山車は運行されていた。
 
京都の祇園祭よろしく(似せた)山車は2階建てで、下には大太鼓、小太鼓、鼓(つつみ)、
 
三味線、オオカワ、チンチン(金)等が載り、山車の後部に横笛で演目を奏うでながら歩く
 
囃し方衆が続くという行列を組む。
 
ちなみに、宮田の津島様のお囃子の演目には『本囃し』と『帰り囃し』があるが、山車運行の道順にて
 
津島神社から遠のくコースをとっていく時は『本囃し』、
 
津島神社に近づくコースをとる時は『帰り囃し』を演奏して練り歩くのが常である。
 
帰り囃しの駅前から神社に向かう道中で、特別な踊り~ひょっとことおかめ~が、うれしはずかしの身振り手振りの
 
『ばかおどり』が山車の2階で披露されると、沿道の大勢の観衆は拍手喝さい、盛り上がったものだ。
 
階上の二人は、それぞれ団扇(うちわ)を手に派手に踊り、汗だくとなるも、お面をかぶり踊っている本人たちは、
 
誰かも知られないので恥も外聞も忘れ、この時ばかりは山車の花形。
 
まさに千両役者だ。
 
私も23歳、会長の大役になった年(神男)に一度だけ、人知れず演ることが叶った。
 
祭り当日まで段取りはすべて順調に進み、
 
唯一、梅雨が長引きヤキモキしていたところ、カラッと良い天気となり、嬉しくて、
 
踊りながらお面の下でうれし泣きをしたことを思い出す。
 
 

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