小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2009年 8月

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アキトの履歴書 20

2009.08.31

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駅伝)
 
 日本の駅伝と言えば、正月の箱根駅伝(大学生)を始め、最近はニューイヤー駅伝(実業団)に代表されるように、
 
世界でも特に日本の文化と言われる位人気が高く(EKIDEN)、TVでも終始、生中継で放映されその注目度は高い。
 
 私の中学生時代には、各クラスで代表チームを組み村内一周のクラスマッチがあった。
 
 中2の時は第1走者として出場した。スタートと同時に赤尾先生が自転車オートバイに中学の校章旗を立てて
 
先導者として走りだした。
 
 その時、上級生で短距離走が得意であったTさんが、その先導のバイクを猛烈なスピードであっという間に追い越して、
 
当時の中学校の入り口通路を右折し、一般道路に消えていってしまったのには驚いた。
 
 とてつもなく早い人がいるもんだと感心して走りだしたのだが、
 
桜木町を西に抜け、銭屋さんの所の本通りを南に曲がると、何と。
 
Tさんは歩いていたのだった。皆に抜かれていくその姿は、まさに“テレビ馬”そのものであった。
 
 思い出しついでになるが、高校2年の時に赤穂の街中を走った際、前を走る何人かを抜いて
 
更に前を走っていた上級生を捉えかけた時の事。その先輩ランナーには自転車で伴走者が2人ほど付いていた。
 
その2人から、
 
「おい、お前。先輩を抜く気か?」
 
「抜くなよ、抜くなよ」
 
と、声をかけられたのだ。もちろんジョークではあったが。
 
 今でも駅伝やマラソンを観ていると、ふと思い出す。不思議と記憶に残っているものだ。
 
 新聞配達で鍛え抜かれた身体は自分でもびっくりするほどであった。
 
知らず知らずのうちに足腰、心臓等への素晴らしいトレーニングになっていた。6年間は辛い時もあったが、
 
お金にもまして素晴らしいものを私は得ていたのだ。
 
特に持久力、耐久力はバスケットボールを通して強く実感していた。
 
 昭和36年、高校3年の春の県下高校駅伝大会にも、そのためか出場出来たのだろう。
 
 当時の赤穂高校の陸上部員では長距離を走れる人員が不足で、大会に出場したいが、どうしても1人足りない。
 
クラブの顧問の間で推されるのではと噂になっていた私に、
 
「是非とも出場してもらいたい、参加チームのメンバーに加わって欲しい」
 
と話がきたのだ。
 
無論、高校代表ということで、恥ずかしながらも引き受けたのだった。
 
 その年の春の高校駅伝のスタートは大町から、松本城までのコースだったと記憶している。
 
前日、米3合を持参し松本まで行き、バスで大町まで逆に下見がてらコースを辿り、大町に前泊した。
  
 
(不定期で連載。回数は未定)
 
 

アキトの履歴書 19

2009.08.28

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(厨房に入れず)
 
 言い訳がましくて恐縮だが、私の上には姉が5人も居たため、日常の炊事、洗濯、掃除等の一切の家事は、
 
女のするものだと小さい頃より思っていたので、それまで全くしたことがなかった。
 
 ただ一度した家事と言えば、高校受験の日。その日、私は半日で家に帰って来た。
 
見よう見まねで妹とドーナツを作って食べようと考え、メリケン粉を練って伸ばしたところに、
 
湯呑み茶碗の飲み口側の円と底の円でもってドーナツ状に加工してみた。
 
それがまた上手いこと輪に加工できる。1、2個試しに油で揚げて食べてみたが、旨く出来た。
 
『こりゃいいぞ』と一度にたくさん作ろうとした事が、間違いであったと後になって気づく。
 
しばらく天ぷら油の入った鍋を加熱したままの状態にしてしまったのだ。
 
ドーナツもどきがたくさん用意できたので、さあ仕上げとばかりに何個かをその鍋に流し入れた瞬間
 
「ボカーン!」
 
 そのけたたましい音と同時に、お勝手場じゅうに鍋の中身が全て飛び散った。
 
妹は、顔を両の手で押さえて、その手を決して放そうとしない。
 
猛烈に熱せられた油をまともに顔に浴びてしまったのだ。
 
私とて手や腕にヒリヒリとやけどを負ったのだが、それどころではない。妹の姿を見て、私は途方に暮れた。
 
 手をどけて診たくても診ることさえ出来ない。
 
どえらいことになってしまった。
 
 それから家に戻った母にこっぴどく怒られた。
 
「大切な女の顔に大やけどで嫁に行けなくなるではないか!」
 
と大変責められたが何も言えない。
 
 本当に悪いことをしてしまった、つくづくいぢむさなことと、それ以来、家事はしたことがない。
 
この事は妻には誠に申し訳ないが出来ないのだ。
  
 すぐさま母は、医者と、やけどの治る祈祷をしてもらえる中村福太郎氏の家(町三区)へ妹を連れて行った。
 
小学生の妹は学校も休み、大騒ぎとなった。次の日から妹の顔はまさにやけどのひぶくれた状態で
 
“お岩”のようであった。
 
(面と向かうことは出来なかったが)その後、妹の顔のやけどはきれいに治り、私はほっとした。
 
しかし、未だに油鍋には恐怖を感じる。
 
 お世話になったまじないの福太郎さんが、私の妻、よう子のおじいさんであったとは、
 
この時点では知る由もないのだが、大変感謝している。
 
 

アキトの履歴書 18

2009.08.21

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(内職工場)
 
 高校卒業の頃(昭和38年)は、住居の一室のお座敷工場から、宮田の駅の踏切りのすぐ西にあった現場小屋
 
(旧渋谷林業の材木置き場)を買うことが出来、工場として本格的に仕事が出来る体制を作り始めた頃であった。
 
 当時の小木曽製作所は手加工品の量産しか対応できず、機械設備もなかったため、手がけていたものは、
 
澤藤電機向けの圧縮弁ばね一辺倒であった。(50∞、60∞用)
 
 冷蔵庫用のそのばねは、ドイツのエンゲル社の特許品に使用されていた。
 
電気を流すとばねが動き、それにより圧縮されたガスを利用して冷やすという機能の部品である。
 
家庭用、業務用、自動車にも使用されていたもので、“つい最近まで”世に出ていたのではなかろうか。
 
 現場小屋を改造した工場は、道を挟んで日発の正門の真正面に位置していたため、
 
下請けとして近くて便利さはあったと思う。
  
それは小木曽製作所においても。
 
 圧縮ばねをクリープテンパー工程(注1)にかけるにも、熱処理する設備すらなかったため、
 
リヤカーに製品を乗せては日発の構内、会社を行き来し、設備を使用させて頂き熱処理をしていたのだった。
 
 
 
(注1) 圧縮ばねを製作する時、ばねの高さに十分余裕をもって作り、締付け工具で密着まで締め付け、
 
クリープテンパー温度で適切時間過熱後、あらかじめへたりを十分起こさせてしまう方法。
 
 ある条件下でばねを使用する時、“へたり”が発生する場合があり、これを防ぐ方法として、
 
ばねにあらかじめ使用荷重以上の力を加えて“へたり”を取り除く方法が用いられる。(=セッチング)
 
 使用温度以上に熱した状態でセッチングをするのは「ホットセッチング」と呼ばれる。
 
 ばねを冶具や締付け工具等で、所定の荷重位置や密着まで締め付け・固定した状態で熱処理を行う方法が、
 
「クリープテンパー」と呼ばれる工程である。
 
 

アキトの履歴書 17

2009.08.17

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(父と家族 3)
 
 繰り返しになるが、父が九州から帰郷してきた時は、日本中が不況の真っ只中であった。
 
東京に出ていた父の弟は二人、一人は警察官、一人は新日鉄に勤めており、その二人に宿の世話を受けながら
 
2ヶ月近く東京中を職を求めて歩き回ったそうだ。
 
その時履いていたゴツイ皮靴は底が抜けてしまったと後で聞いた。
 
 そんな時代だったので宮田に戻りケンメン(後の日発)に入るには
 
何かボイラーの資格でも持っていないとダメだと気が付き、ローソクの灯の下で独り勉強し、通信教育を受け、
 
見事、資格試験に合格。釜たきへの(ボイラー)再就職にこぎつけたのだった。
 
 その後は日商の関係で“鋼(はがね)”が入手できるため、包丁や鎌等を製作した時期もあったようだ。
 
それが後に、ばねの製造へと変遷することになる。
 
父は線ばね製作の見習い第1号として、何人か部下を連れだって横浜本社へ出向き、教育され、
 
ばね職人として歩み始めたのだった。
 
それ以来、ここ宮田には線ばねの工場である日発伊那工場があり、現在に至っている。
 
 次女と四女の姉二人は、私が高校へ行くと同時に結婚し、伊那町へと嫁いでいった。
 
それまで、次女は日発に検査員として勤めており、四女は内職工場を始めていた我が家に呼び寄せられていた。
 
 後に聞いた話だが、父はその頃から始めていた内職工場を、姉に婿を迎えて一緒にやっていこうと考えていたようであったが、
 
二人ともに逃げるように嫁って行くことになり、見事に思惑が外れたのだった。
 
そんなこともあって私に、高校を出たら家に残って仕事を手伝ってほしいとの事情が発生したのだろう。
 
そのために高校の2年になる直前に、担任に話をし、将来に“タガ”をかけたのだ。
 
結局、私は高校を出てすぐに家に残った。
 
 一つ上の五女の姉は、高校卒業後、宮田の郵便局へ就職した。その際、村役場の試験にも受かっていたため、
 
当時の浦野村長に詫びを入れ、局の方へ就いたのだった。
 
弟と妹はそれぞれ高校を卒業し、弟は東京に、妹は岡谷へと単身住み込みで就職した。
 
 卒業後、父の手伝いを始めていた私の、「なんで俺だけがこんな田舎にくすぶってしまったのか」との想いは強く、
 
親にもたびたび反抗した。
 
当時、高卒の初任給は7~8千円、高いところだと1万前後ももらえたようだが、駆けだしの家内工場では、
 
それはもう極貧状況で、私の賃金は1ヶ月500円しか貰えずじまい。
 
これでは新聞配達していた学生時代の1300円のアルバイト代の方がはるかに良かったという有り様。
 
悔しくて情けない、それが現実だった。
 
 だから四女の勇子(いさこ)姉も初期の頃であったから苦労したのに違いない。
 
賃金は従業員の方へ最優先で回され、少し残ったとしても、とにかく設備が何もない状況であったので、
 
全てがそちらに振り向けられ、設備に化けていったのだった。