小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2010年 4月

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アキトの履歴書 40

2010.04.27

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期4~青年会とは)
 
 青年会のボランティア活動の主なものは、町の祇園祭。お祭りの準備から終わりまでの全てを担い、
 
取り仕切る事が使命となっていた。
 
会員をまとめ、組織を挙げて活動していくには、皆の協力、盛り上げは必要不可欠。
 
殊に青年会長の役割は重大であり、その力量、資質はかなり必要で、当時会長になった者は、
 
仕事よりもお祭りを最優先に考え、行動する一年間であったと言っても大げさではない。
 
 毎年、タツケをつけて、昔の越後獅子の子どもの様な格好になって、津島神社前の塚本で
 
少しばかりの化粧をしてもらい山車について行ったものだ。
 
 当時はまだ現代の様な車社会になっておらず、朝夕は宮田村内企業の通勤者と通学者で
 
6:00から8:30の間は大変な人の出入りがあり、宮田駅は休日以外混雑の時間帯だった。
 
そのため、雪が10センチ以上積もった早朝は、駅前から山田工業(現TBM)までのいわゆる通勤道路の雪かきも、
 
青年会のボランティアとしてよくやった。朝5:30位から7:00頃まで、自宅のそれより優先して参加していた。
 
 他には町公民館の図書管理もやっていた。
 
当時の町区はまだ1、2、3区に分かれておらず公民館は一体で運営されており、
 
敬老の祝いなども合同で行われていた。
 
また、現在の小学校がある場所の東側に役場があり、消防の本部を兼ねていたため、
 
そこにある、村で唯一のポンプ小屋には、ポンプ車が2台常時配備されていた。
 
当時、私も消防団員の一員として“ポンプ操法大会”がある時季には、郡大会までかり出されたものだ。
 
 町青年会に入って、祭り以外の活動にも少しずつ係わる事になっていった。
 
そんな時、村全体の若者の間で語り合う集会、そのテーマの一つに「恋愛と結婚」というのがあった。
 
その際に多くの女子が、
 
“結婚と恋愛は別物である”と考えていると聞いて、私の考え方とはずいぶん隔たりがあるなと感じた。
 
私は、結婚を前提としてでなければ、それはただの知人、友人、仲間であり、付き合ってもいないし恋人でもない。
 
“恋愛は自由であり、別物である”などとする考えを、当時は全く理解できなかった。
 
 また、別のテーマの集会でも私の記憶に残る主張をしていた人がいた。
 
大久保の林君(1級上の人)だったが、彼はその時
 
“自分は8ケタ農業経営を目指す”(千万単位の農業収入)と主張していた。
 
それは「ホラ」ではなかった。その後、かなり年を経てからだが、彼はそれを実現し、
 
“ブタ御殿”まで建てた人物となった。
 
しかし数年前、名古屋で接待旅行中に急死したそうだ。酒が悪かったと聞いている。
 
 また、あの当時は社会主義、共産主義の考え方や影響がかなり強く、村青年会の幹部は言ってみれば
 
左翼一辺倒の人たちで占められていた印象があった。
 
それは、私の様な無党派人間にとっても、相当なストレスを感じるくらいの風潮であった。
 
 

アキトの履歴書 39

2010.04.19

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期3~バー)
 
 その頃、宮田に初めてのバー「バー志摩」が出来た。
 
「竹松屋のお好み焼き」
 
「中原亭のラーメン」
 
「万里の焼きそば」は、それまでにもあったが、隣町の伊那市まで行かないと
 
“バー”という若い女性の居る店は、ここ宮田村にはなかった。
 
 清村の妹さんがやっていた店だったが、当初は珍しくて元気のある人、稼ぎの良い人でないと行けなかった。
 
ビール1本250円なりと聞いていた。
 
 ちょい悪仲間で一度行こうという話になりはしたのだが、一人ではとてもお金がないし、何より勇気がない。
 
それでも、小島君がどうしても行こうと言うので相談した結果、4~5人が手持ちのお金を全部出しあったところ
 
1,000円ほどあることが確認出来た。
 
「よし。これでビール4本分ある」
 
「1本で30分は粘れる(ねばれる)」
 
と、店に入った。
 
 そして、なけなしのお金でもって、チビチビとビールを注文した。
 
店の中には若い女が4、5人いたが、皆、馴染みの客がいるらしく一人もこちらのテーブルに来ない。
 
 あげくに、少しずつ常連客に馬鹿にされる始末。しまいには“ガンをつけ合って”雰囲気が悪くなってきた。
 
一触即発。喧嘩になりそうに見えたのであわてて制止し、支払いを済ませ何とか店を出てきたのだが。
 
何とも情けない、ほろ苦い“バー”の思い出、飲み屋デビューとなった。
 
 

アキトの履歴書 38

2010.04.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期2~ローメン)
 
 昭和30年代後半。娯楽と言えば、映画、パチンコ、ラーメンを食べに出ること位だった。
 
 ある時、隣町の伊那にうまいローメン(注1)屋があるので食べに行こうと、仲間数人で電車に乗り出かけた。
 
 入舟(注2)だったと思うが、近くに2件パチンコ屋があり、パチンコで一稼ぎしてから
 
ローメンを食べようという事になり、お昼までに2時間ほどあったのでパチンコをしていた。
 
 小一時間過ぎた頃に、手持ちの小遣いをほとんど使い果たした仲間の1人が私のところに来、
 
少し玉を回してはいたが、また1人、スッたと言って近くに来たので
 
「おい、このままではローメンどころか帰りの電車賃もなくなるぞ」
 
と、あわてて止め、ギリギリ残っていたお金で何とか食べて帰って来た思い出がある。
 
確かにうまいローメンだった。
 
現在も、あのローメンに代わるものは見あたらない。
 
 1ヶ月働いて給料が6~7千円の時代であったので、派手に使えばそのローメンにもありつけないところだった。
 
 
(注1)
 
 ローメンは、マトンなどの肉とキャベツなどの具となる野菜を炒め、それに蒸した太めの中華麺を混ぜ加えた、
 
長野県伊那地方の特有の名物麺料理。
 
 ラーメン用のスープを加えるもの(ラーメン風)と、加えないもの(焼きそば風)があるが、
 
そのどちらとも異なる独特の風味の料理である。好みにより、にんにく、油、酢などをかけて食べる。
 
 今では、ローメンをメニューに載せている店は伊那地方で100軒近い。
 
 
(注2)
 
 入舟(いりふね)は伊那市の中心部にある地名。伊那は、南アルプスと中央アルプスに挟まれた
 
伊那谷の北部に位置する町で、その中心地近くに天竜川が流れる。
 
天竜川とJR飯田線の線路脇にあるのが飲み屋街として知られる入舟である。
 
 かつて、人口規模のわりには飲食店が多い街として、全国で5本の指に入ると言われた事もあるほど。
 
現在でも多くの店が軒を連ねる。
 
 
 
 

アキトの履歴書 37

2010.04.10

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期1~成人式とタバコ)
 
 中学生の頃より、野球界では長嶋の巨人デビュー、(少しして、“ワンちゃん”王貞治も登場する)
 
映画界のスーパースター裕次郎の活躍等、時代のヒーロー達が、マスコミ・スクリーン等のメディアを通じて
 
若い世代の我々の仲間内でも話題になり、憧れの的になっていった。
 
世はまさしく「巨人、大鵬、玉子焼き」
 
二十歳になる同世代の仲間が大勢いた当時は、成人式が村の行事として定着する“はしり”であった。
 
こぞって、上下、三つ揃いの背広を自分に合わせ、特注仕立てで購入することが成人の証(あかし)。
 
私も知り合いの店に出向いて、寸法取り・サイズと生地の選定をして、少し大人になった気分を味わった。
 
裕チャンの真似をして、背広はサイドベンツにして作ってもらった。
 
しかし、それも結局、色柄が気に入らず義兄にあげてしまい、1、2回ほどしか着ていない。
 
零細企業の職工の私には、成人式以外で背広に袖を通す必要も、機会もなかったのだ。
 
 成人式は一日かけ、村の中学校で行われた。例年通り作法室でのセレモニー、体育館での写真撮影。
 
終了後、隣町の駒ヶ根に数人で映画を観に行った。
 
その途中、タバコを買って初めて吸ったのだが、少し吸いこんだ瞬間、めまいと吐き気で立っていられず、
 
その場にしゃがみ込み、しばらくこらえていた事を憶えている。
 
以後、カッコ良さで吸っていたが、最初の夜、自室で空き缶に寝タバコをしていて、父の知るところとなった。
 
「とにかく火事だけは起こすな」
 
と言われた。
 
火を点けて1、2センチで消す状態が常だったので、父は
 
「そんなもったいない吸い方なら止めたらどうだ」
 
と、よく言ってもいた。
 
当時はフィルターのないタバコであったので、父は吸い残しをバラして紙で巻き直したり、
 
キセルで“私の残り”をよく利用していた。
 
それが、今ではすっかりヘビースモーカーとなってしまっている。