小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2016年 12月

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アキトの履歴書 64

2016.12.31

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

(よう子と結婚する)

 

高校卒業後、父の内職工場に勤め始めて2年目。時折、工場の慰労会が従業員の皆で行われていた。

 

私は酒に弱くてあまり気が進まなかったのだが、それでも一緒に参加するようになった。

 

最初、酔って横になってしまったのだが、その時2人のおばさんが上にのしかかるようにしてきて、耳元で、

 

「よく、こんな会社へ入ってくれたね。おばさんばっかりで可哀想だけど、

 

私たちは大変嬉しくてしょうがないんだに!!」と言われた。更には、

 

「都会へ行っても、こんな色男ならツバメで暮らせるよ!」と、ぬけぬけと言っていたおばさんたち。

 

皆さん、元は日発に勤めていて結婚と同時に退職し、子育てが落ち着いた頃で、

 

当時の私から見れば“年寄り”のおばさんばかりだった。(失礼)こんな職場環境だったので、

 

若い独身女性には全く巡り合う機会などあるはずもなく、それも青年会にのめり込む一因だった。

 

だから、良い女(ひと)に巡り合えたら一直線という気持ちは他人より数倍強かったかもしれない。

 

この機会、この女性を逃がしたら2度と良い出会いはない、と心に決めたのだった。

 

今振り返れば、私には過ぎたる女房といわれるほど良い女性だった。

 

「しきしまの やまとのくににひとふたり ありしとおもはば なにをかなげかむ」

 

という短歌に託して、私の気持ちを伝えたのがこの頃だった。中村よう子さんが会社の旅行に出かけている時に

 

ご両親に会って話をしたいので家に居て頂くようお願いをしておいた。そして、

 

「お父さん、よう子さんも満更でもないと感じていると思います。私の嫁さんに頂きたいのです。

 

どうかよろしくお願いします」と、緊張しながらも、きちんとお父さんにお話しした。

 

その後は、連日デイトで過ごした。

 

正月の成人式の日、私の家へよう子さんを初めて迎え入れ、両親に紹介し、

 

「私が選んだ娘です。結婚すると決めた相手です」と話した。

 

父は、私が自分から進んでよく働くようになっていたので、弁当持参してでも良い相手を見つけ、

 

いずれ見合いでもと考えていたふうだが、早々に私が決めてかかってきたので、驚くやら感心するやら。

 

しかし、私の頑固な性格を知っていたので、早速、婚礼の準備・段取りに取りかかったのだった。

 

当時、私の家は貧乏だったが、一応、村の小木曽総本家の血統に繋がっているので、まず父はお仲人を、

 

分家である母の実家に相談してお願いしたところ、塚本の叔父さんは、私の父が工場を始めていたので、

 

将来のことも考え特別な計らいをと、通常の形式にとらわれるのでなく、自分の子供である

 

小木曽歯科医の先生を指名して婚儀にあたるよう配慮をして下さった。子息の将来の事も考えた末、

 

今現在、一番勢いのある小木曽元彦氏にお願いする段取りとなった。

 

それから、父が改めて元彦氏に正式にお仲人を依頼し、中村家に出向き、11月3日文化の日を

 

式を挙げる予定日と定め、当時完成したばかりの宮田観光ホテルで1日貸切にて執り行うことと決まった。

 

(昭和42年:ちなみに当時の結納金は、月給の3か月分くらいが相場だった)

 

※ 不定期に連載してきました「アキトの履歴書」も、本人死去の為、本章が最後となってしまいました。

 

長きに亘りお付き合い下さり、ありがとうございました。

 

アキトの履歴書 63

2016.12.30

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(片思い)
 
 町青年会長として、自分なりに持てるエネルギーを精一杯発揮して、祭りに、青年会活動にと、
 
リーダーシップを駆使してやり遂げたという達成感に浸っていた。我ながら良く出来た。
 
中でも一番の感激は、神男を無事に務め一生に一度の男の花道を経験出来たことだ。
 
 秋になり、ふと、これからどうしようかと考えた。仕事では新たな仕事が増々入り、忙しい毎日を送っていた。
 
2輪車向けブレーキシューは、相変わらず増産に次ぐ増産。
 
この頃からタカノさんの量産品で折り畳み式のコウモリ傘(アイデアル)が、爆発的な人気、大増産で、
 
やってもやっても、作っても作っても、売れに売れ生産が追いつかない状況で、
 
そのタカノさんの応援ということで、弊社でもコイリングの巻き込みのみを2年ほどやらせてもらった。
 
材料の径がφ0.55、ばねの外径は3㎜弱、長さは60㎜ほどの大きさだったと記憶している。密着引張ばねだった。
 
 当時は、自動の線出し機はなかったので、手送りで材料出しをしていた。
 
ばねの内径が鉛筆の芯くらいで、(巻き込み用の芯金が)細くて折れやすく、超硬の芯をタカノさんから頂戴し、
 
それを基に自分で工夫し加工して、巻き込みをした。
 
 この頃『なんである、アイデアル』~『アイデアルはイヤデアル』が流行った。(植木等起用のCM)
 
 弊社のコイリングはセグメント式のもので、扇形ギヤーが能力不足だった。
 
別途、展開長が長く巻けるよう特別にあつらえたギヤーを使用して巻いていた。ナスコイリング105Cのことだ。
 
これは今も健在、使用可能だ。(2016年7月まで)
 
 そして、青年会に対してはどうするか。
 
仕事第一で考えたら「早く卒業して身を固める」べき、との結論に達した。
 
周りからは少し早いと言われるかもしれないが、結婚すれば否応なしに青年会は辞められると考え始めていた。
 
 さて、肝心の相手の女性は、と思案してみた。親には何も相談していない。
 
思いを巡らせている時、青年会員の中にいる女性ではどうかな?と考えた。
 
すると、もしかしてあの人はどうかと思える人が一人だけ思い浮かんだ。
 
「中村よう子」この女(ひと)だった。
 
 どうしたら良いのか、当たって砕けろの気持ちはあるが、迷いに迷った。かわいい。清純である。
 
素直で真面目で、その上、頭も良さそうだし、言うことなし。誰もがそう思っているに違いないと考えた。
 
 会長をやっている日頃は比較的遠くから見てきたが、今からでもアタックを試みることを密かに心に決め、
 
何とか男の競争の中に、自分も彼氏として立候補しようと本気で考えた。
 
でも、頭の良い娘だから単純な口車では無理だろう。
 
口下手な自分の気持ちを伝えるため詩に託そうと、気に入ったものを選び出した。それは、
 
『白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ』(若山牧水)
 
 この時の心がこれにピッタリだった。
 
そこから、他の人に先を越されないことを念じて、猛アタックを試みた。
 
秋になってドライブに蓼科、白樺高原に行った。私の車と、レンタカーを借りて皆で行った。
 
その後、少し遅い時季に上高地にも出かけたが、天候が悪くなり途中で引き返すことになった。
 
ひたすら楽しいことを次々やろうとし、本当に当時は楽しく過ごした。
 
 年の瀬には3区の公民館でクリスマスパーティーもした。千代本(有賀)のウクレレも記憶に残っている。
 
何でも良いので、と会員同士でプレゼントを交換し合った。
 
 とにかく、何とか彼女に気に入ってもらいたいと必死で、色々とやったのだった。
 
これで少しは脈が出て来たかと感じ始めたが、ただの独りよがりだったかもしれない。
 
 

ありがとうございます

2016.12.28

カテゴリ : 問い合わせ/カレンダー

 
本年も残りわずかとなりました。
 
ありがとうございました。
 
弊社12/29~1/5を年末年始休業としています。
 
明くる年もよろしくお願いします。