小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2014年 8月

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アキトの履歴書 57‐2

2014.08.29

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

(祇園祭:一世一代の男の花道へ) 
 
 そんな折、突然に町3区の滝沢千成爺が練習場に顔を出し、“バカ踊り”と“ヒョットコ踊り”の指導をして下さった。
 
流石、昔取った杵柄だけあって、その所作は実に見事。とても印象に残った。
 
帰り囃しの時に披露するのが恒例だった。
 
亀屋の壮ちゃがヒョットコ、川手さんが少し太めだったのでオカメの役となり、その後も一時代を担った。
 
 山車だけが今年も昔のものはないので、木社のトラックを例年通り借りる段取りをし、
 
電気配線、バッテリー・マイク他は酒井電器か加藤電器にお願いした。
 
 お囃しは順調に仕上がってきたが、次に踊りを3曲覚えねばならない。
 
今度は公民館へ移動して山浦先生の指導の下、男女混合でこれまた男子にとっては恥ずかしながらも踊りを習った。
 
 境内の石段の高いところの両側に飾る屋根を、何十枚と障子紙を張り替え、青色と赤色の市松模様に仕上げることも
 
大切な前段取りのひとつであった。睦友会という強い結束を誇る良き仲間関係もすでに出来ており、
 
私自身もリーダーとして祭りを担うことへの自信をつけていった。
 
 準備が進み、祭りまであと1週間となったころ、練習を少し早く切り上げて中間の御苦労会(慰労)は、
 
会員皆が一心同体となった感があり、大いに盛り上がった。
 
 ただ、会長の私は唯一心配があり、夜もおちおち眠れない。それは、
 
“当日雨が降ったらどうしよう、今までの苦労が全て水の泡になってしまう”
 
だった。心配で心配で日が迫るにつれ一人悩んでいた。
 
 祇園祭、7月14日という日は宮田村、この伊那谷の梅雨明けとちょうど重なる頃なのだ。
 
しかし、お天気ばかりは天に祈るより他はない。
 
実際のところ、祭りの練習中は毎年よく雨が降っていたから余計に心配で、今年も案の定、前日まで雨は残っていた。
 
神輿は雨に関係なく行えるし、祭り自体は中止にはならない。しかし、山車が雨で出せなかったら、そのご祝儀が入らない。
 
山車には、人形師として高遠の専門家を頼んであり、
 
その方々への謝礼代、ひき子らに用意する花笠の代金支払いだけが残ってしまう。
 
それは、私にとって大きな悩みの種だった。
 
 

アキトの履歴書 57

2014.08.28

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:一世一代の男の花道へ)
 
 町青年会で幹部仲間に、
 
『今年の祇園祭は山車にひき子を付けて盛大に行う。また、小学校も今年から午後を休みとして頂ける、
  
伝統の祭りに協力をしてもらえる。』
 
との話をして皆で結束を図り、やりがいのある祇園祭にしようとまとまった。
 
それから小学校は14日が半日あがりになるので、保育園も同じように半日で休園として頂くよう事情を話したところ、
 
すでに小学校が半日と決まっていたため、右に倣えで、早速半日あがりと決まった。
 
これで稚児も含めた形で山車と囃し連と親子連れの保育園児、小学校低学年の子供の参加が可能になり、
 
私はとても忙しく、段取りを次々としていった。
 
まず、祭り当日ひき子が取り付く長い縄が必要だったので、営林署に借りに行った。
 
次にカラキヤ商店(仲町にある下駄屋さん)へ行き、
 
『今年からは、青年会員だけでなくひき子を復活させることにしたので、去年の4~5倍の数の花笠が必要となる。
 
ついては、今から急ぎ手配をかけて欲しいのでよろしく頼む。』
 
と、店の主人はびっくりしたが、それは嬉しい悲鳴であった。女性会員には、男子がお囃子の練習をしている間に
 
花笠に付ける花(ピンク色の薄紙でできたもの)を子供らの分まで作ってもらったりと皆が忙しく準備に追われた。
 
2週間は集中してピーヒャラ、ドンドンと境内にある消防の夜警所で真剣に練習に明け暮れた。
 
横笛は個人個人に渡しておき、暇さえあれば練習したものだ。
 
先輩である加藤さん、川手さん、小田切さん、他の何人かも来て指導してくれた。
 
 

アキトの履歴書 56

2014.08.27

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:男の花道と運命の出来事)
 
 町青年会の例年の行事である新入会員の勧誘に行った。
 
町3区の中村さんというお宅に行けば、青年会に入ってもらえそうな人がいるとの事だった。
 
ほどなく中村と書かれた表札を見つけ、氏名が並んだ中に“美千子”とあったので、玄関に入り
 
「美千子さんを呼んで下さい。」
 
と“本人”に出てきてもらい、
 
「青年会に是非とも入って頂きたいのですが。」
 
と告げたが、どうにも変な顔をしている。
 
そして、
  
『私じゃない、姉さんだと思います。』
 
と言う。実は、該当する本人と思い込んで説得していたのは、妹の美千子さん。まだ学生。
 
とんだ赤っ恥である。
 
 また、偶然にもこの中村家は、
 
以前おまじないをお願いした“偉いお爺さん”(福太郎翁)のお宅であったと後日知った。
 
《注:私が中学生の頃のテンプラ鍋爆発事故(=私がドーナツを作って食べようとした際、
 
鍋の中の加熱した油が飛び散り、私の妹の顔が大火傷で大変なことになった事件)で
 
火傷の傷痕が残らないようにと、おまじないをお願いした》
 
 私の妹は、今はきれいにスッキリ完治しており、返す返す、思い出すたび良かったと感謝している。
 
それから、“中村よう子”さんが町青年会に入会してくれたのだが、
 
まさかこのよう子さんと、後に結婚することになろうとは、この時点では想像もしていなかった。
 
 私は春から青年会長になったばかりで、祭りの大役も果たさなくてはならず、父には
 
「今年は祇園祭の主役もこなすので、夜の仕事は全て出来ない。青年会行事のある時は、そちらを何よりも優先する。
 
また、若干お金も余分に欲しい。」
 
と話していたし、とにかく祭りを成功させる事だけを考え、どうしようかとそれきりで頭がいっぱいだった。
 
 そして、
 
“どうせ私にとっても一回限りの会長職。自分の考えられる限りの盛大な祭りにしたい”と頭を張り巡らし、
 
“そうだ、自分が子供の頃見た祇園祭に少しでも近づけたい。
 
三六災害時から何故屋台(山車)のひき子を取り止めてしまっているのか、
 
なぜ今は祭りが一日だけとなっているのか”と考えた。
 
私でできることがあれば挑戦する気で進めてみよう。今年は何とかして祇園囃子に子供の参加をお願いして、
 
ひき子行列をプラスできないかと思案した。(子供の)参加が可能となれば、久しぶりの本来の祭り復活につながり、
 
皆が賑やかで喜ばしいことになると思ったのだ。
 
 早速、私は小学校を訪問し、校長先生に
 
「何とか(祭りの日の)7月14日を半日に、学校を午後休みにして頂けないでしょうか。」
 
と頼み込んだ。
 
突然の訪問で私がその話を切り出したのだが、校長先生は、
 
『話は解りましたが、今この場で私の一存では決められない。県の教育委員会にお伺いをしてみますので、
 
1週間ほど結果が出るまで待って欲しい。』
 
とおっしゃって下さった。
 
 ちょうど1週間後に連絡があり小学校に行くと、校長先生は開口一番、
 
『小木曽さん、許可が下りましたので祇園祭の14日は半日とします。但し、万一事故等トラブルが発生した場合は、
 
来年からは許可が出なくなりますよ。』
 
と教えてくれた。
 
「判りました。無事立派な祭り行事にいたします。本当にありがとうございました。」
 
と返答し、その足で、すぐに氏子総代会長(花井家具の初代社長)のところへ行って報告した。
 
「そうか。賑やかにして頂ければ私共の面子(メンツ)も立つし有難いことだ。
 
予算は余分にかかるとは思うが、そちらは任せろ。」
 
とのお話を頂いて、私は本当に“やった!”と思った。
 
 
※祇園囃子(ぎおんばやし)
 
 神輿は町内を練り歩く。その前に行程を清める意味で、囃し連が先に練り歩くもので山車(だし、屋台)と呼ぶ。
 
屋台を杉の小枝で賑やかにし、2階の先頭部分に、毎年、年代物の人形を飾り付け、
 
稚児のひき子行列をなした一大行事である。
 
昔は7月14日、15日の2日間に渡り、行われていた。
 
 

アキトの履歴書 55

2014.08.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:母のカミナリ)
 
 サブをやった時の祇園祭。神輿の壊しで無事終了かと思ったが、最終の石段の上で、
 
『三役に任せろ!』
 
の掛け声が飛び、私を含む3人で
 
十の字だけになった(既に大半は壊れているので)神輿の心棒を撚り合い(よりあい)、
 
後は会長独りで叩き付け心棒が折れる寸前となるところまで、お膳立てをしっかりやった。
 
 そして、心棒から少し上の位置で通してある楔(くさび)の部分を何回か打ち付けるのだが、なかなか折れない。
 
何回か繰り返しているうちに1回、(心棒が)まともに跳ね返って私の目の眉毛をかすった。と思ったら、
 
生暖かいもの(鮮血)がピューッと吹き出た。あわてて豆絞りで目の上を縛り付ける。
 
正に皮一枚のところで事なきを得た。会長の最後の心棒の破壊もヨイショ、ヨイショの掛け声で恰好がついた。
 
そして、大三国の花火の下を喜び駆け回った。両肩はもちろん、神輿担ぎで赤剥け(あかむけ)になった。
 
 この赤剥けは毎年のこと。
 
完治するまでシャツがくっついて、結局、お盆を迎える頃までなかなか治らずにいたことも懐かしい。
  
 この年の夏、町の支部会でキャンプ場に行き、花火を繋いで100メートルほどの“ナイヤガラの滝”を作り、
 
派手に盛り上がった。
 
 そんなお祭りの時期が過ぎた後は、仕事の山が待っていた。日発へ行ったり戻ったりの忙しい日々が続いていた。
 
 そんなある日、私が日発へ出かけて工場を留守にしていた際、後輩の娘(役場勤務)から電話がかかってきた。
 
私を呼んで欲しいとの内容らしかったが、これに応対した母が
 
『男が一生懸命仕事をしているのに、とんでもない女だ』と言ったらしい。
 
後で彼女本人に聞いてみると、
 
どえらい剣幕で『昼間には二度と電話をするな』と言われたそうだ。
 
 そんな事件があり、
 
「(母が恐くて)もう、あなたとは付き合えません。」と言われ、
 
私は見事に振られたのだった。当時の村役場は、何人かの若い女性が交代で電話番をしていたようだ。
 
私から逃げてしまわれた彼女は、それから数年後に郵便局に勤める方と結婚したが、
 
60歳を少し過ぎた頃に病死したと聞く。
 
 あの時、母のカミナリがなかったら、結婚するも私は早々にヤモメになっていたか知れない。
 
この頃は、今までの仕事が右肩上がりで、増々大量になっていくばかり。国中が懸命に働き、お金を貯めては
 
欲しかった家電製品を買い足して、いわゆる家電の『三種の神器』(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)という成長の象徴、
 
豊かさを求め実感するという時代。日本の社会、経済は活気に溢れており、集団就職列車で東北から上野を目指し、
 
南は沖縄、九州からも“金の卵たち”(中卒の若者)が続々と東京へ向かった。
 
 日発でも、一時、九州から中卒で100人位の集団が来た際、
 
シート工場(名古屋、トヨタ向)立ち上げの2~3年の現場は見習い実習生で溢れていた。
 
 私の工場では、本田向の二輪車(バイク)のブレーキシュー(スプリング)が、これまた、増産に次ぐ増産で
 
月産30万~45万個という数をこなすため、毎日フル生産に追われていた。
 
 
※ ブレーキシュー:二輪車(バイク)のブレーキ部分に使われるばね。
 
二輪車1台につき、前輪、後輪部に各2個使いで計4個必要となる。
 
重要保安部品の指定があり、当時の弊社では唯一、厳格なロット管理を徹底し流動していた。
 
 

アキトの履歴書 54

2014.08.15

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:会長となる)
 
 三役(青年会の)も無事任期を終え、景気も仕事も右肩上がりで多忙な毎日であった。
 
そろそろ町の青年会を抜けようかと考えていたところ、小坂屋(小田切氏)の次の会長をと、
 
先輩、仲間の会員から是非やって欲しいと何回も言われていた。
 
 しかし、私は首を絶対に縦に振らずにいた。やりたくなかった。
 
何度も、何人にも口説きに押しかけられても頑固に断り続けていた。
  
終いには、他の地区の、私にとっては信用あるI先輩が乗り込んできて、
 
「大勢がお前さんが良いと言っているのだから、受けてやったらどうよ。
 
今ここまで期待されて、それでも尚、断ってしまっては町の青年会、村の他地区の若い衆がガッカリするぞ。」
 
 I先輩にまで口説かれ、私は逃げ場がなくなってしまい、とうとう一大決心をしたのであった。
 
ただ、そういっても私自身、左っぽい人達を追い詰めて騒動となったので若干気が引けてもいた。
 
だが今はその関係も絶え、村内の他地区も一件落着し、喜び、意気投合した状況だったので、
 
中立無党派の立場なら誰にも気兼ねせずにいられるだろうと、“まあいいか”と腹を決めた。
 
 毎年5月1日のメーデーは、うちの小さな町工場に労組があるわけでもなし、
 
私にとっては何の意味もない一日だが、
 
宮田の駅前には、労組のある職場から、役場、タカノ、日発、山田、とそれは賃上げ要求の人達の集まりで、
 
大層な行事となる。自分達の身勝手な要求ばかりで、経営者と労働者のイタチゴッコがエスカレートしていく。
 
そんな時代になっていた。
 
 青年会でも、
 
「度が過ぎると会社が倒産してしまうよな。」との話も出たものだ。
 
 それからの5~6年で世間一般的にも、大手と下請け(零細)の給与格差は大きく広がった。
 
 私の工場は下請けなので、毎年のベースアップのペースについていけなくなっていた。
 
それでも、昇給額が4ケタのうちは、仕事を増やして格差を最小限に、との思いで
 
残業もしてもらってフォローしていたが、5ケタの昇給が大手で始まった時には、流石に、
 
ついて行くどころの話ではなく、それこそ色んな意味で苦労の連続の始まり、
 
零細企業受難の幕開けともいうべき時代にさしかかり始めていた。
 
 だからこそ、自分が若いうちに大役をやって、早く、本業の仕事の方に本腰を入れるぞと覚悟を決めたのだ。