小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2009年 12月

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アキトの履歴書 33

2009.12.23

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(ちょい悪仲間との公民館活動)
 
 昭和30年代後半。公民館社会活動の一環として青年学級というものがあった。
 
高校時代バスケットで活躍していた延長で仲間を集め、当時の、細田我徳(がとく)公民館長にお願いをして
 
学級クラブとして認めて頂き、毎週1回、その仲間とともに、バスケットの練習で小学校の体育館を借り、
 
飛び跳ねていた。
 
 私以外は、ほとんど初体験の若者ばかり、5、6人での発足であった。
 
 細田染色店で、トレードマークの描かれた横断幕を作成し、毎回、窓際に張って活動していた。
 
夏はパンツ一丁で飛び回っていたものだ。仲間内の一人の父親は、
 
“遊び呆けて困り果てていた子供が、真面目に体育館で、毎週汗を流しているなんて信じられない”
 
と考え、ある夜、小学校の体育館の板の隙間から中の様子を覗き見したところ、本当に練習をしているのを見て、
 
感心し、安心して帰った。との話を、後日聞かされた。
 
 もう一人。
 
私と同世代の、東京から宮田に来、岡田角ノミに勤めていた小島君がいた。
 
 この男は村の駐在さんのブラックリストにも載っている程の男で、酒、タバコはもちろんのこと、
 
おまけに喧嘩っ早くて、駒ヶ根辺りのチンピラとよく鉢合わせをしていたようであった。
 
 彼とは、私が高校を卒業する頃に出会った。駅西の安アパートにお婆さんと2人暮らしだった。
 
将棋が好きで、ひょんなことで知り合い、何回か将棋を指す事もあった。
 
バスケの仲間に引き込んだのは、他の仲間を通じてのものだ。
 
 ある時、彼はタバコが切れ、大変へこんでいる様子だったので、
 
「買えば良いではないか」
 
と言ったところ、
 
「(給料の)前借り、前借りで、給料袋は頂いたが
 
中の明細書には赤い字で“-1,500”とあり、受取る金がない」
 
との答えだった。
 
 あまりに情けない姿に、タバコ代の100円ほどを私がやったところ、すぐさま他の者に買いに走らせ、
 
あのしょげた姿はどこへやら。早速、火を点けると、
 
「お前も吸わないか」
 
と一本差し出す。“現金なもの”である。
 
私が、
 
「二十歳までは絶対口にしない」と断ると
 
「堅いヤツだな」と言われた。
 
 そんな自分も、現在ではすっかりヘビースモーカーと化しているのだが。
 
 

アキトの履歴書 32

2009.12.11

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し 9)
 
 設備的にも未整備だらけの零細企業。当然、仕事の内容の多くは限られた後加工しか出来ない。
 
それさえも多少の機械、道具立ては必要なので大変な事だった。
 
巻込みは親会社。ウチには後加工の曲げと切断。等に限られてしまう。
 
とても全加工を受注するだけの設備はなかったので、少しずつ、本当に少しずつ
 
与えてくれそうな製品に合わせて設備を整えていくしか手立てはなかった。
 
 そんな状況だったから、父は日発の古い設備を借り受けて、それを利用して新しい仕事を導入するという方策を
 
主体に進める事が多かったのだと思う。
 
 今でこそ特殊部門のばねを成形・加工するためには、フォーミングマシン等、NC制御・コンピューター付の
 
素晴らしい機械が幾らでもあるが、それらが開発される前の時代だったので、
 
ばねの後加工は親会社と言えども大変な工程であり、それなりに手間暇をかけなければならず、
 
はたまた同業他社との競争もあり、それらをカバーするために外注に出す事情があったわけだ。
 
そんな背景もあって、ウチもそれに見合った対応で進行していきつつ、設備も徐々にではあるが整えられていった。
 
 とは言え、日本経済は、
 
私が高校卒業する頃のなべ底景気から高度成長に向かっている兆し(きざし)が見え始めていた。
 
『貧乏人は麦を食え』から急反発、東京オリンピック開催も追い風の心理状況が生まれ、
 
あの頃は日本が戦後の高度経済成長時代へ向かっていく、まさに前夜だった。
 
 新しく『三種の神器』と家電メーカーも華やかに、国民に活力を生むコマーシャルまで登場し、
 
鳴り物入りで浸透していったのである。