小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

2016年 9月

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アキトの履歴書 61

2016.09.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(姫宮神社の祭典復活)
 
 快晴の下、久しぶりの引き子復活での祭りであったので、耕地の方々、商店の方々からのご祝儀も思いのほか集まり、
 
男子会員は慰労会のたびに派手に飲み食いするが、女子会員はそんなにお酒を飲むわけない。
 
祭り支度ばかり、ご苦労をかけっぱなしであったので、特別に浴衣の生地を贈呈した。
 
負担をかけて申し訳ないが、本人もしくは親御さんに、一人一人の背丈に合うよう裁縫をして頂くようお願いした。
 
 結果、女性会員のお揃いの浴衣で踊りを楽しめたのだった。
 
最大の行事(津島神社の祇園祭)も皆の協力で終えることが出来た。
 
 この年は慰労会も楽しく過ごせた。まもなく宮田高原のキャンプ場でキャンプファイヤー。
 
手作業で100メートルほど繋いだナイヤガラの花火に火をつけ盛り上がったのも良い思い出だ。
 
(この時は下から歩いて高原まで行った)
 
 そして、この年の秋9月の姫宮様の祭りがちょうど町区の年番(祭りの仕切りの当番)であることを
 
氏子総代の方から教えて頂いたのだが、
 
実のところ、姫宮の祭典は神事のみで余興はもう久しくやっていないとの事だった。
 
 そこで私は、町青年会がまとまっていたこともあって、
 
「姫宮の祭典も復活しましょう」と氏子総代である花井の社長に伝えた。
 
「やってくれるなら皆の顔も立つし、それは喜ばしいこと」だと快諾して下さった。
 
「予算はないが、お金の方は氏子衆で心配するから大いにやって下さい」
 
との返事を頂き、私は余興の全体をどうするか考えた。
 
 そうだ、日発のハワイアンバンドに出演をお願いして、のど自慢大会も兼ねてやろう。
 
そして、青年会員で“踊りと一芝居”等々で盛り上げる。昔懐かしいお祭りにしようと決めた。
 
 その昔、宮田劇場の華やかなりし頃を。とイメージ、
 
父の書棚にあった本の中に洒落た芝居の一幕があったので、それを男性会員でやることに決めた。
 
 早速、宮田劇場に昔、出演していた方で有名な人物、
 
赤木竜太郎(本名:小平守)氏のお宅を訪問し踊りと芝居の指導・稽古をお願いした。
 
 当時、小平さんは南信地区の地祭りの余興の役目を担い、赤木一座としてあちらこちらの祭りに出張していた。
 
舞台に必要なもの、衣装はもちろん大きな緞帳(どんちょう)から内幕まで個人で所有しており、
 
特に頭にかぶる“カツラ”は、ありとあらゆるものを沢山抱えておられた。
 
 芝居の一場面「芸子魂」の公演、芸者役でカツラを付けて一芝居打ったのは
 
私には初めての経験だった。
 
 その時の舞踊は「伊那の勘太郎」「黒田節」等、バラエティに富んだものだった。
 
青年会員のよう子、ミッチャのアベック勘太郎、ハルチャの黒田節も本格的な衣装による初披露であり、
 
地区住民の大絶賛を浴びた。
 
 それら芝居の大道具として、宮田劇場の地下にあるものを、
 
当時のシナノヤ社長(太田さん)にお願いして借用した際、劇場地下の大仕掛けを初めて見た。
 
大きな心棒を人手による動力で転回する、有名な回り舞台の仕組みであったのを覚えている。
 
かつて、宮田村が栄華を誇った名残がそこにあった。
 
 のど自慢大会とバンド演奏は、舞台上に審査委員としてタカノ会長(鷹野忠良氏)と氏子総代さん方に上って頂き、
 
余興は盛大に行われ、大成功と大感激の良き思い出として記憶に残っている。
 
タカノ会長の有名なベサメムーチョは、この時に初披露されたのだった。
 

 
(注:不定期に連載してきました「アキトの履歴書」も、本人死去の為、本章を含め4回分の
 
          遺稿を残すのみとなりました。残りの章は64までとなります。しばし、お付き合い下さい。)