小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 6

2009.05.22

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

(父の退職)

 

昭和30年、私の小学校卒業と時を同じくして、長男であった父は、小木曽家の本家を半ば追われるように捨て、

 

駅の南の現在の家に引越し、一家は新たな生活に入っていた。

 

当時はあるなしのお金をはたいて、そこにある古家を買い、引越したのであるが、

 

その時に一つだけ父は私に真剣な面持ちで話したことがあった。

 

・・・ここは春日無線(後のトリオ。現在はケンウッド)の創業者の住んでいた家で、その人は大変な出世をした人である。

 

ここを買うために東京へ上京し、本人に面会するまでに“自動ドア”を何回もくぐり抜け、やっと社長室に着いたこと。

 

それはもう大変なものだと・・・だから、ここは大変縁起の良い場所である・・・といったことを話し、

 

また、自らを鼓舞していたようだった。

 

私も、父の話を聞く以前より、母のガンバリからも一家の置かれた状況は身にしみて感じていた。

 

引越した当時は本家を出て、いわばゼロからの出発を余儀なくされていたものであった訳で、

 

大変な覚悟だったろうと回顧している。

 

また、周囲からは「ここはおたくたちの住むところではない」云々とまで言われたこともあり、

 

一家全員に、いつか見返してやろうという気持ちが強くあった。

 

実はその引越し直前に、父はそれまで勤めていた会社を退職していたのだった。

 

父は宮田にあった日本発条の職工の幹部で、また、当時の岡崎工場長とは何度となくテニスの相手をするほどに、

 

親しくさせて頂いていた。

 

そんな折、不景気の波がきた。

 

宮田の工場にも本社から首切りの命がきて、それはかなりの人数であったらしい。

 

父は自ら「首切りの員数に入れて下さい」と申し入れて退社したのだった。

 

その際、タカノさんで「来て欲しい」とのお話も頂いたようであるが、当時は55歳定年の時代であったので、

 

「2、3年しかお仕え出来ないので」と断りをいれたようだと後に聞いた。

 

父が受け取った退職金は、半年で使い果たして、すっかり我が家から消えたそうだ。

 

そんな父を拾って下さったのは岡崎工場長だった。

 

つまり“退社して困るだろうから、日発の下請け内職をせよ”と。“道具がなかったら日発のものを使ってやりなさい”

 

ありがたい話であった。これに始まり、現在の小木曽精工に繋がるのである。

 

父ばかりでなく私も合わせ、2代に亘り大変お世話になったことを忘れはしない。

 

創業当時、中学生であった私は、学校が休み中はもちろん、夜なべしている父の“おてこ”もずいぶんやったものだ。

 

 

 

 

アキトの履歴書 5

2009.05.21

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(中学校 2)
 
 2年になっていたある日、休み時間に作法室の天井裏に入って遊び、その天井からK君が腰までぬけ落ち、
 
数人で机を積み上げて下から押し上げ助け出したこともあった。
 
次の授業に少し出られなかったことと合わせ、当然、えらく怒られた。
 
 またある時は、職員室のちょうど真上の階の教室を清掃中、バケツをひっくり返して
 
案の定、水が階下に漏れ大騒ぎになった。これまた大変な説教をされた。
 
 学校の畑がグラウンドの南側にあり、そこまで運ぶ“コヤシ担ぎ”もピタピタと“はね”を飛ばしながら
  
やっていたことも思い出す。
 
 こんな私でも、杉原先生の英語の時間だけはプレッシャーを感じて真剣に取り組んだ。
 
授業中、先生は名簿のアイウエオ順に生徒を指名し、質問や問題を解かせたからである。
 
いやでもア・・・オの「オ」で必ず回ってくるのだ。
 
答えられないと立たされ、名簿順の次を追っていくということが繰り返された。
 
 また、このやり方は高校へ行っても同様の手法を採る先生がいたので、私なりに対応せざるを得なかった。
 
 我が家の貧乏生活は相変わらず、中学に行くと同時に、私は小遣い欲しさに新聞配達を始めた。
 
毎朝4時半に起きて、自分の受け持ち分は折込チラシも、自ら、手を真っ黒くしながら用意したものだった。
 
確か、当時(昭和30年代)の手当は1ヶ月700円であった。
 
 
 

アキトの履歴書 4

2009.05.17

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(中学校)
 
 昭和30年の春、中学校に上がった。当初は、教室が不足していたため1クラスが55名前後で、
 
それが3組までぎっしりの、“スシヅメ学級”で過ごした。
 
 1年の担任は倉田先生といった。その先生に私は一度だけ突っかかったことを記憶している。
 
それは日誌を毎日提出するという宿題があったのだが、ホームルームの時間に
 
「まだ出してない人がいるが今日中に出すように」と先生が言った時だった。
 
私は思わず「今日中ということは夜の12時までで良いのではないですか」と、口に出した。
 
ひどく怒った先生は、私に、バケツへ水を入れたものを両手に持たせ、
 
「廊下に立っていろ」と、そのまま2時間くらいだろうか、清掃の時間が終わるまで立たされたのであった。
 
 “自分のことならまだしも、他人のことでつい余計な口を訊いてしまった、黙っていれば”と思ったが
 
後の祭りであった。
 
 2年、3年は花村先生に指導を受けた。当時の中学時代は野球が盛んで、
 
1年生の時から見込みのある者として各クラス2名ずつが、野球部育成の方針で特待生扱い。
 
授業後の清掃免除で、私も先輩たちとともに“特訓”を受けた。練習を通しての上級生との交流も
 
懐かしく思い出される。
 
 当時の我が校は、長野県南部の野球大会では常勝軍団であった。
 
“ベーブルース物語”の本を私に譲ってくれた先輩が、その後、地元の赤穂高校で甲子園に出場したことも
 
鮮明な記憶として残っている。宮田中出身者はピッチャー竹村以下3名であった。
 
 クラブとは別の“野球部”に所属している当時は、弁当を2つ持参し、
 
昼とは別に清掃時間に2つ目を食べてから練習へ行ったものだ。
 
 

アキトの履歴書 3

2009.05.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(小学校)
 
 昭和24年の春、小学校に上がり、倉田陽子先生という優秀な先生に3年生まで指導頂いた。
 
親たちにも評判の良い先生だった。先生の実家近くの祭りの日に、電車に乗り遊びに行ったこともあった。
 
本当にお世話になった。
 
 命拾いは小学校に上がってからも起こった。伊那峡のダムの船着き場だった。
 
昔はボートがあった。伊那峡と言えば、後々のお祭りまで、とても盛大に行われていたが、現在、
 
その面影はわずかに残っている程度か。
 
 その船着き場で、悪ガキ仲間に背後から不意に突き落とされた。水はかなり深く、
 
落とされた拍子にしこたま水も飲んでいた。もがき苦しんだ末に何とか水面に這い上がった。
 
この時もまだ泳げない頃だったので必死だった。
 
 昭和28年、小学校4年生になり、野溝先生へと担任が代わった。先生の教えは宮沢賢治一色で、
 
「雨にも負けず風にも負けず・・・」の詩を暗記させられるほど熱心だった。
 
銀河、宇宙・・・等々の言葉も、この頃良く耳にした。先生はまた、彼の本もよく私たちに読んで聞かせた。
 
広島の原爆の話もよくされていた。その先生が早くに亡くなられたのは、
 
もしかして被爆されていた方だったのかと私は思っている。
 
 小学校の卒業文集「みのり」も自分たちで手作りした。あの当時は“ガリ版”で一枚一枚を皆で手作業で仕上げた。
 
“大人になったら何になりたいか”の寄せ書きに私は、「社長になりたい」と書いた。
 
だが、友達にはさんざん冷やかされ、馬鹿にされた。
 
また、野溝先生との思い出の中で、特に記憶にあるのは数字の7。
 
「シチ」か「ヒチ」かで、もめて、“すず竹”が砕けるまでスパルタで教えられたこと。
 
今でも鮮明に覚えている。私が小学生の頃の先生は、文字通り「先生」であった。
 
あの頃の先生と子供、親の三者の関係は、
 
失礼ながら現代の親バカのしつけとはかなりズレがあると感じている。
 
 
 

 
追記
 
 物心つくようになったばかりのこと、校庭で野営していた米軍の近くに行って
 
「アイム、ピカドンデ、ハングリー!ハングリー!」と年上の先輩に教えられたとおりに言っていたところ、
 
本当にチューインガムを1箱恵んでくれた。
 
あの当時、まさしく夢のような出来事として、今でもしっかりと覚えている。
 
 

アキトの履歴書 2

2009.05.12

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

(命拾い)
 
 川遊びと言えば、3歳になった頃(昭和21年)、自宅の横を流れる小川を飛び越えようとして落ち、
 
そのまま頭をゴトゴトと石で打ちながら2、30メートルほど流され、その川の曲がりっぱなで
 
母に拾い上げてもらったことを今でもはっきりと覚えている。
 
ずぶ濡れの着物でしゃっくり泣きをしていたことまで。
 
 また、5、6歳の頃だろうか、“北の城のつり橋”を渡り岩場を下りたところに、魚釣りに行った。
 
その時、隣の先輩は親の釣竿を持っていて、岩肌を伝った先で釣りをしていたので、
 
私も釣るポイントを移動しようと、その先へと岩肌を伝っていった。しかし、途中岩がすっぽりと岸から崩れ落ち、
 
岩もろとも深い川の中にドボンと落ちてしまった。
 
その頃はまだ泳ぎが出来なかったので、もがきながら浮きつ沈みつ、
 
先輩の釣っている川下へと流された。先輩の前まで私が流されていった時、そこで初めて彼は気が付いてくれた。
 
「早く竿につかまれ。」
 
と、呼ぶより先に出された竿には当然つかまったのだが、
 
無情にもその竿は繋ぎ目から見事に抜けてしまったのだった。そのまま流され“死ぬかも知れん”と思った直後、
 
私の背丈でも足の届く、水かさが首の高さのところまでの浅瀬に、どうにか足先が触れたことで、
 
命拾いをしたのだった。
 
 その時にも、勿論、着ているものはずぶ濡れになったが、シャツやズボンは岩に載せて乾かしてから、
 
何事もなかったように帰宅したのだった。
 
ちなみに、泳げるようになったのはその後、小学4年生か5年生になってからだと思う。