小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 47

2013.09.25

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期9~勉強とは)
 
 私は勉強が好きな方ではない。しかし、今日まで生きてきた中で、文献から得た知識や経験から導き出した
 
自分の考え方、見方がある。
 
 オギャーとこの世に生まれた赤ちゃんは、言葉に始まり、ありとあらゆる知識、経験等、死に至るまでの全てを、
 
すでに神秘の脳に詰め込まれているものであり、経験、体験済みの事柄を思い出すこと、
 
いうなれば『再現』によって、見かけ上、知恵がついて成長し大人になっていくのだと考える。
 
 親のしつけ、言葉、その他、色々なことがどんどん目に見えてきて、
 
保育園、小学校、中学校、高校、大学、と進むにつれ更に思い出す。
 
すなわち勉強とは、
 
記憶(DNAに埋め込まれた神秘の記憶)を思い出し、頭の中に蘇らせる作業なのだと言っても良い。
 
(一生懸命やりさえすれば簡単に思い出せるだけなのだ)
 
 この事から、努力しさえすれば、高校、大学に行く為のテストなんぞは簡単なのである。
 
こうしたこと(勉強をするかしないか、または、好きか嫌いか)が、
 
十人十色に振り分けられる所以(ゆえん)と私は考えてきた。
 
いわゆる有名校・名門校の出身であることや、高学歴を自慢する人が、世の中には大勢いるが、
 
何の値打があるのか。私にはわからない。
 
 テストの練習をしただけ、学校に行けただけの事で、真似事だけは誰でも出来るのだ。
 
仕事も政治も全て同様だと私は思う。
 
 特に、この国の政治に至っては、“サルまね”までしか出来ない人のなんと多いことか。
 
学者、官僚の人たちの学歴を訊けば一目瞭然である。つまるところ先進国の真似をしていけば、
 
(そのほとんどはアメリカの後追い)良くも悪くも同水準までは到達する。
 
追いかける方は、先を走るものより少しの努力で追いつける。
 
 問題なのは、“未経験、未知の”新規事業にぶつかった時。学歴の問題云々ではない。
 
この場合は、再現ではなく、新たな事柄を体現出来るかが強く問われる。
 
テストの出来が良かった人達ばかりでは全く対応不可であり、何の妙案も浮かばず立ち往生。
 
お先真っ暗状態となるのである。
 
今の日本はこれにあたるのではないかと憂うものだ。
 
 

アキトの履歴書 46

2013.09.21

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期9~プラトンのすすめ)
 
 東京オリンピックで初のお上りさんとなった翌年(昭和40年)、町公民館の図書管理を任された時期があった。
 
当時、町1~3区は公民館一体運営で、公民館内には分館合同の図書館があり、
 
毎年、村から2~3冊の新冊本が提供されていた。
 
週一回の当番で、借りる人、返す人の記帳を預かるというものだった。青年会で盛んに先輩が言う
 
イデオロギー(思想)問題を少し勉強でもと、興味半分でその手の本を一時期、片っ端から読んでみた。
 
主に革命について書かれたものが多かった。フランス革命、ロシア革命、辛亥革命、等々だったが、
 
どの革命の歴史本を読んでも、この国に当てはめるには無理があり、とてもそうはならないだろう。
 
 日本の状況は全く違う。
 
流行り病のように左翼主義に感化された先輩衆の言う事は、所詮、にわかかぶれだと感じた。
 
そもそも日本の国土は小さく狭い。その上、細長い島国で四方は海に囲まれ、しかも、資源が無い国だ。
 
この事実は変えようが無く、自給自足で生きられる訳がないのだから、共産主義なんてなりたくても不可能なのだ。
 
“外国から資源を仕入れて加工して、良い製品を開発し輸出して付加価値で稼ぐ”
 
これしか日本の国が生きていく道はないし、そのためには、自由主義経済社会を標榜して進んでいかねばならない。
 
と、私は強く考えていたので、結局、社会主義・共産主義に与する(くみする)ことはなかった。
 
 この頃、心を打たれた本は、『坂本龍馬 全4巻』がある。これを読んだ時、龍馬の生きざま、
 
自分の事でなく日本のために生きようとする姿、心情、心意気に感嘆した。
 
なかでも姉への手紙で
 
「今一度日本を洗濯致したく候」の言葉は印象深い。
 
それから後、図書棚に並んだ書籍の中にひときわ大きく厚いオレンジ色の本が目についたので、これも読んだ。
 
『プラトン』古代エジプトの哲学者の本だ。
 
その内容は、50年近く経った今でも強烈な記憶として頭の中に焼き付いている。
 
まさに目から鱗(ウロコ)だった。
 
~その昔、人類の祖先は男女兼ね備えた強く逞しい生き物で、時に悪戯(いたずら)をして困ったものだったので、
 
神はお怒りになり、男と女の割り符にしてしまわれた。そして、更には寿命を与えられた。
 
これで半人前になった人間は、お互いに引き付け合い、出来得る限り、
 
より良い相手に巡り会うべく努力することとなった。それが人間を成長させることにもなる。
 
また、寿命があるということは、人生は一度限り。繰り返しはできない。
 
だから、誰しも命のある限り、精一杯懸命に生きることとなるのだ。~
 
という事が書かれていた。
 
『プラトン』を読んでから私は、自分なりの人生観、生き方を常に心に抱いて生きることにしている。
 
とても良い本だと思うので、今の若い人たちにも読んで欲しいし、話して聞かせても良いかも知れない。
 
(さて、現在の村の図書館にプラトンの蔵書があるかどうか?)
 
 

アキトの履歴書 45

2013.08.17

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期8~祭りのトラブルと迷い子リーダー)
 
 町の青年会の女性会員の中には、保母をしている人が3人ほどいたが、山車(の後)についての踊りは、
 
祭り当日が休日でないので、職場の都合上、参加は不可(というより拒否に近い)とのことだった。
 
役場や会社勤めの他の人たちは、毎年ちゃんと新曲3曲ずつの手踊りを習得し、
 
にわか芸人でボランティア参加をしてくれているのに、なぜ一緒に出来ないのか合点がゆかなかった。
 
先輩諸氏をもってしても口説くことは叶わなかった。
 
 そのくせ、他部落の先輩方に左翼っぽい言動を吹聴(ふいちょう)され、赤く染まっていくのがみえみえだった。
 
私のものの見かたとはずいぶん違う、どうしてもスッキリしないと感じた。
 
 当時、他地区でも、やはり各部落に伝わる神社のお祭りはあったのだが、
 
なぜか“三神社統一”という話が他地区の青年会で話題になっていた。
 
なんでも、各単会で担っていくのはもう限界があるとの事で、北割、中越、大久保の各神社の祭りを一緒に出来ないか
 
との話が進んでいるらしい。
 
若い人が少ないところに、いかにも左翼っぽい連中が考えそうなことだと、私は思った。
 
断続する方法、やり方には色々あると思うが、文字通り、手っ取り早く手を引く方へ努力をしていたのである。
 
ただ、町青年会にあっても、会員は他地区の人数よりは大ぜい在籍していたのだが、どうやりくりしても
 
町の祇園祭を担うには人員不足だったため、一人が3人分くらいの役目をこなさないと、
 
祭りのスムーズな運営と実現は、不可能な状況にはなっていた。
 
(意見には個人差があります。)
 
 
※神男=しんおとこ
 
 本殿の神様(御神体)を一時移すべく、神主の手から神輿の真柱へと導き、麻ひもでくくる。
 
この行為は神主と神男が協力して行なわれる。
 
その後、御神体を乗せた神輿“あばれみこし”は町中へと繰り出す。
 
この日の神男は、御目出度い神を守りながら、氏子の代表として“あばれみこし”の運行一切を取り仕切る、
 
祭り一番の名誉ある役目である。
 
 神男の大役は、人生で一度しかやってはいけない。貴重な巡り合わせであると同時に、
 
その名誉は絶大であり、まさに男の花道である。
 
 
(不定期で連載。回数は未定)
 
 

アキトの履歴書 44

2013.06.20

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期7~祭りのトラブルと迷い子リーダー)
 
 私が青年会に入った時は、19才。消防入団と同時期だった。(昭和37年)
 
町の青年会長は1年毎に代わることになっていた。上下3年くらいの世代で協力し合う仲間が出来ていて、
 
いわば結(ゆい)のような、結束力が受け継がれていた。
 
 1年、2年、3年経った頃に、会員同士での次期会長選挙が行われた。この時、2年先輩の二人が同数となり、
 
決選投票の末、決まったのが小田切保鉱氏だった。一方、会長になれなかったI氏は悔しかったのか、
 
会合や慰労会等、事あるごとに、やたらと場の雰囲気をぶち壊す行為を繰り返し、皆を困らせていた。
 
 飲み会のあったある日の終了間際には、とうとう台ごとひっくり返した。
 
私は三役になっていたので、場が白けるのはまずいし、誰にも止められないと考え、
 
『おい。喧嘩売るなら外へ出ろ。』
 
と一喝し、本人を連れ出した。
 
「何だ、お前。俺に文句があるのか。」
 
『文句が言いたいから外へ出てもらったのだ。』
 
と言ったか言わないうちに、手を出して突っかかって来たので、境内ではまずい、
 
下の宝蔵庫の前で決着をつけようと言って石段を下りていった。
 
2、3回どつき合った時、
 
『先輩かも知れんが悪いのはお前だ。絶対に許せん。酒に酔っていても容赦しないから、そう覚悟しろよ。』
 
と啖呵をきってやった。
 
こちらのあまりの剣幕に、今晩はおとなしくするとの事で公民館へ戻った。ところが、会が終って片づけをし、
 
神社の石段を下りたところで揉め事の続きになった。子分のような立場のM氏が私に突っかかって来たのだ。
 
『何だ、お前。悪いことした奴の肩を持つのか』
 
と、また一喝して突き飛ばしたところ、彼は転んでしまった。皆の前で恥をかかせてしまって悪いとは思ったが、
 
黙っていれば後々困ることになる。
 
祇園祭のような一大イベントを成功させるには不満分子の芽は早めに摘むことだと、自分の役目を考えていた。
 
 後に聞いた話では、少し酒癖が悪く、気に入らないとすぐにノミを振りかざして威嚇する人物らしかったので、
 
刃物を持って来られては、と、しばらくは警戒していた。
 
しかし、単純な者同士、仲直りは早かった。
 
 

アキトの履歴書 43‐2

2013.06.19

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
ここ宮田では、町区に人口が集中して盛っていた昔、生糸・繭(まゆ)を主体にした製糸産業が、
 
全国的にみても特に盛んであり、活力に溢れた一時代を築いた歴史があった。
 
 戦後を経て、これに取って代わった大小様々な起業家たちにより、村の面積は狭いにも係わらず、
 
現在の製造業群のある村へと成長したのである。
 
一時は、働き先が多いので他地域より労働者(サラリーマン)が宮田に流入し、競争が激しく、
 
若者(金の卵たち)は自然の流れで大きな会社、評判の良い職場へと就職した。
 
宮田に限らず日本中、若者は中学を卒業すると都会へ、大企業へと次々に集団就職していった。
 
私が村に残ったこの頃も、長男、跡取り以外は殆んどが県外へ出ていく時代だった。
 
それ故に、村の最大イベントである祇園祭を受け継いでいくのは、人数的にもギリギリで大変な事業だった。
 
飾り道具は日数をかければ出来るものの、祭り当日は、山車、あばれみこしと人足がいる。
  
 会長になった人は、それを仕切るのに相当なプレッシャーがかかった。
 
とにもかくにも一致団結、まとまって協力してもらわないことには出来ない。
 
何年か前の先輩で伊那峡に立った(身投げしようと)ほど思い詰めた人もいた、とも聞いた。
 
 特に、みこしは一人では担げない。動かせない。統率のとれた運行も欠かせない。
 
『お囃子は協力出来ても、みこしは怖くて嫌です』
 
という人も何人かいた。
 
 まさに、あばれみこしと云われる故のことだった。
 
私の姉が青年会に属していた頃は、山車は、みこしの出る前(神輿を練って歩く先。道々)を清める意味があり、
 
14日の昼から町内全部を廻り、翌日の本祭にも山車は運行されていた。
 
京都の祇園祭よろしく(似せた)山車は2階建てで、下には大太鼓、小太鼓、鼓(つつみ)、
 
三味線、オオカワ、チンチン(金)等が載り、山車の後部に横笛で演目を奏うでながら歩く
 
囃し方衆が続くという行列を組む。
 
ちなみに、宮田の津島様のお囃子の演目には『本囃し』と『帰り囃し』があるが、山車運行の道順にて
 
津島神社から遠のくコースをとっていく時は『本囃し』、
 
津島神社に近づくコースをとる時は『帰り囃し』を演奏して練り歩くのが常である。
 
帰り囃しの駅前から神社に向かう道中で、特別な踊り~ひょっとことおかめ~が、うれしはずかしの身振り手振りの
 
『ばかおどり』が山車の2階で披露されると、沿道の大勢の観衆は拍手喝さい、盛り上がったものだ。
 
階上の二人は、それぞれ団扇(うちわ)を手に派手に踊り、汗だくとなるも、お面をかぶり踊っている本人たちは、
 
誰かも知られないので恥も外聞も忘れ、この時ばかりは山車の花形。
 
まさに千両役者だ。
 
私も23歳、会長の大役になった年(神男)に一度だけ、人知れず演ることが叶った。
 
祭り当日まで段取りはすべて順調に進み、
 
唯一、梅雨が長引きヤキモキしていたところ、カラッと良い天気となり、嬉しくて、
 
踊りながらお面の下でうれし泣きをしたことを思い出す。