小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 11

2009.06.14

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(バスケットボール)
 
 2年生になってから初めて部活を始めた。(昭和36年)
 
何でも良かったのだが、私は、唯一やったことのないバスケットボールを選んだ。
 
とにかくその時の、青春のエネルギーを、バスケ一筋へと向け、発散させたのだった。
 
新聞配達で鍛えられていた身体のために、走ること、耐久力、持久力はバッチリで自分でもかなり自信はあったのだ。
 
 だが、技術的には全くの素人。ゼロからのスタートとなり、試合に出られるには程遠く、
 
入部して半年間は悔しい思いで、傍から見ることが常だった。
 
 また、当時の3年生、先輩陣は人員も多く、特に西春近の面子は中学生の頃より強くて有名であった。
 
本当に素晴らしく巧い人たちが揃っていた。
 
中学校でバスケをやっていた者が、高校へ行ってもまたバスケを続けるのは、腕に覚えのある者ならば、
  
なおさら当たり前の話であった。
 
 しかし、このまま指をくわえて試合を見ているだけで終わるわけにはいかない。
 
私は他人の3倍練習をすることと決めた。
 
まずは、後輩に追いつき追い越せとの想いで、暇さえあればシュート等の練習に明け暮れた。
 
 目標はとりあえず“飯島中学でエース”だった上山君にした。彼もやはり中学からバスケをやっていたので
 
下手な先輩よりはるかに上のレベルであった。
 
 私はドリブル、ランニングシュート、45°シュート等、必死で練習を繰り返した。
 
その年の3年の先輩達の代は、春、秋の2回ともに県大会に出場した。
 
大会会場が長野の時には、二沢顧問の実家が戸隠の中社で旅館をしてらしたので、
 
特別に戸隠までバスで行って、一泊お世話になった。
 
 ところが、その一泊した際に事件が起こった。
 
その夜、先輩が酒を買って来いと命じ、
 
後輩の私達は言われるままに、その辺りで一軒しかない酒屋へ買い出しに行かされた。
 
先輩達は茶碗酒で、回し飲み、一升を空けてしまったのだが、
 
気配を感じた先生は、ガラッと襖を開けて部屋の中に入ってきた。一気にシーンとなったのは言うまでもない。
 
当然であるが、その場に居た部員全員がこっぴどく怒られたのだった。
 
 それと試合後の帰り道、長野駅近くの食堂で“五目揚げソバ”を初めて食べたことも記憶している。
 
これがまた、実に美味かった。
 
 

アキトの履歴書 10

2009.06.06

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(大学には、やらない)
 
 新聞配達や高校へ通う際は、冬でも雪がなければ下駄で通した。すり減っても、何でも、割れるまではとにかく、
 
その下駄を使用した。いつだったか、途中で割れた時は捨てて、片方裸足でもって飛んで配達したこともあった。
 
おかげで足腰、心臓も自然に鍛えられたのかと思っている。
 
そうして、卒業する頃の新聞配達の収入は、月に1,300円前後位にまでなっていた。
 
 私のクラス、A組には異色の人達が混在していた。50名ほどの生徒がいたが、
 
そのクラスの男女比率がなぜか女子のほうが多かった。
 
入学して間もなく、男子生徒の1人が、そのことで先生に噛み付き、そのまま伊那北高校へと転校していった。
 
(当時の伊那北は進学校として名が知れており、そこへの通学者は圧倒的に男が多かった)
 
その男子生徒いわく、
 
「女がいては勉強の妨げになる・・・」とのことだった。
 
 もう一人、気賀沢君もそう思っていたようだが、周りの人から言われて思い留まったようだった。
 
確か、「大学へ行く気もない女子生徒がこのクラスに入っているは、けしからん」云々が、彼の言い分であった。
 
周りの同級生がそんな連中だったので、私もつられるようにテストの勉強等はかなりしたと記憶している。
 
 担任は松沢美男先生だった。先生は「レバさん」というあだ名で呼ばれていた。
 
このクラスでは、テストの出来る順に情報を知らされて、それぞれの学力レベルを判断し、
 
“お前はどこそこの大学を受けられる・・・”などと目標を立てて、日々の勉強をしていた。仲間の気賀沢君も私に
 
「お前の行けそうな大学は、・・・」
 
などと話をしていた。そして1年の2学期が終わり、3学期になった時、私は担任に呼び出された。
 
「(君を)大学には、やらない」
 
と母が先生に言ったとのことだった。
 
「本当ですか。」
 
と私は先生に聞き返したが、先日の母との懇談で
 
“親の跡を継がせるので、大学進学はさせない。すぐに働いてもらう”と、聞いたと繰り返した。
 
この時点で私は、勉強して進学という夢を捨てることになった。
 
 クラブ活動もせずに頑張ったのにと思ったが、我が家の事情まではよく知らされていなかったので、
 
この時は、“父が私に賭けているのかな”と考えてもみたりした。(昭和30年半ば)
 
 

アキトの履歴書 9

2009.06.01

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(高校へ進学)
 
 進学する高校は、近くて電車賃が安い、隣町の赤穂高等学校の普通科へ決まった。(昭和35年)
 
所属は進学コース、2クラスの内のA組であった。
 
 高校へ進むと同時に、それまでしていた新聞配達は、
 
我が家のすぐ北にある近所の平沢さん宅のところへ“勤め先”を変更した。
 
ここでは、中日、毎日、日経、スポニチ、更には産経新聞と、種類が多く、大変な量を配達していた。
 
 朝4:00すぎ頃から、新聞と折込チラシも自分で配達順に準備した。
 
襷(たすき)一本で結わえたのを左腕1つで支えて回るのだが、始めた当初は量が多く馴れないために、
 
腕がだるくて大変だった。
 
配達コースと言えば、これまた近所にある白心寺の周囲を回りつつ南へ向かい、県道を出て両側を。
 
その途中、下へと小路を入り、そこからは町並みを離れた外れまで。それから裏道を回って
 
山田工業(現TBM)まで行ったところを折り返す。
 
河井工器を経て農協の周りを配り、ようやく終了となる。
 
 辺りがまだ暗い時間から出発するのだが、全てを配達し終えるのは毎回7:15前後であり、
 
その頃にはもうすっかり明るくなっていた。
 
 高校に通うため朝はとても忙しく、飛ぶように配達をしなければ、朝7:50発の電車に乗るのには、
 
とても間に合わなかった。
 
 

アキトの履歴書 8

2009.05.29

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(よく遊び、よく学べ)
 
 月700円の新聞配達のおかげで、私は待望のスケート靴を手に入れることが出来た。
 
小学生の頃から私はガキ大将に付いて、村内各所の大きな田んぼに水を張ってこしらえてある“スケート場”に
 
休日のたびに滑りに行くのが日課であったので、自分で言うのも何だが、その頃には滑りが非常に上手になっていた。
 
 滑ることが面白くて、楽しくて、日中気温が上がって氷が割れてしまうまで滑り続けていたものだ。
 
ちなみに靴を手に入れるまでの用具は“下駄スケート”であった。
 
この下駄スケートで練習していた時すでに、千鳥足でのコーナーワーク、バック滑り、
 
ガニ(今で言う、イナバウアー=横滑り)と一通りの技は身に付いており、自由自在に滑ることが出来ていた。
 
靴スケートにしてからは、我ながら“カッコイー”などと悦に入り、滑っていた。更に上達したその頃には、
 
正直、田んぼのリンクでは狭く、物足りない状態だった。
 
新聞配達の手当では、その他に学生服やオーバーコート等も新調出来た。
 
 田んぼと言えば、
 
中学に通うまで田植えはやったことがなかったのだが、ある時、同級生に誘われるままに田植えにいってみた。
 
しかし、全くもって下手な自分にがっかりした。私の手つき、植え方があまりに遅いので、
 
同級生には私の分まで植えてもらい、恐縮した。
 
 そんな私も3年生になり、中学卒業が間近になっていたある日、
 
朝からいつもの調子で体育館でバク転、前宙などして遊んでいたところを先生に呼び出された。
 
「高校へ進学しない者と同じように遊んでばかりいて、お前は本当に高校へ行く気があるのか・・・」
 
との旨だった。私は、
 
「皆が高校へ進学するようなら私も行きます」
 
と返事したことを覚えている。
 
当時の子供たちは半分が就職、半分が進学であり、進学であっても、昼間は働きながら夜間高校へ通うことも
 
珍しくなかった。勉学に関しては、周囲には心配をかけたと思う。
 
 親がいつも言っていたのは「よく遊び、よく学べ」であった。後に、
 
「二兎追うものは一兎も得ず」とも教えられたが。
 
 振り返れば、中学一年の時の南部陸上競技大会。走り高跳びでは学年別で私一人が3位になり、
 
陸上部の先輩に褒められたこともあった。卓球も小学校時代からよく遊んでいたため、上手に出来た。
 
スポーツに関しては、バスケットボール以外は何でも出来たと思う。
 
 この頃はまた、身をもって喧嘩両成敗も学んだ時期でもあった。(昭和30年代前半)
 
 

アキトの履歴書 7

2009.05.23

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(銀シャリ)
 
 中学生になって(昭和30年)からは、友達と一緒によく稲刈りに行った。元村長さんの中越の田んぼに行き、
 
続いて新谷さんの田んぼにも行った。
 
 あの頃、農作業の合間のお茶に出てくるおにぎりは本当においしく、
 
遠慮がちにしていても奥さん達に進められるのをいいことに、腹いっぱい食べさせて頂いた。
 
 当時、鎌で左手の小指付け根も稲と一緒に刈ってしまった失敗も思い出す。
 
ザクザクと刈ることだけは手早く出来ていたと思う。
 
 また、父と親しくしていた下牧の西村の家へ、弟と一緒に農事の手伝いに行ったこともあった。
 
ここでの昼ご飯の美味かったことは今でも忘れられない。白米にサンマの半身、味噌汁のなんと美味かったこと。
 
それらのおかわりをしっかり頂き、昼休みは昼休みで、庭に生えている木に登って、その“赤実”を食べたことまで、
 
今でも覚えている。
 
 その後しばらくして、我が家に西村のおばさんが来た時に、
 
「男2人いるんだから1人家へ下さいな。良ければ学校にも出してやっても良い・・・」
 
との話を両親にしたようだったが、父も母もその話には乗らなかった。