小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 39

2010.04.19

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期3~バー)
 
 その頃、宮田に初めてのバー「バー志摩」が出来た。
 
「竹松屋のお好み焼き」
 
「中原亭のラーメン」
 
「万里の焼きそば」は、それまでにもあったが、隣町の伊那市まで行かないと
 
“バー”という若い女性の居る店は、ここ宮田村にはなかった。
 
 清村の妹さんがやっていた店だったが、当初は珍しくて元気のある人、稼ぎの良い人でないと行けなかった。
 
ビール1本250円なりと聞いていた。
 
 ちょい悪仲間で一度行こうという話になりはしたのだが、一人ではとてもお金がないし、何より勇気がない。
 
それでも、小島君がどうしても行こうと言うので相談した結果、4~5人が手持ちのお金を全部出しあったところ
 
1,000円ほどあることが確認出来た。
 
「よし。これでビール4本分ある」
 
「1本で30分は粘れる(ねばれる)」
 
と、店に入った。
 
 そして、なけなしのお金でもって、チビチビとビールを注文した。
 
店の中には若い女が4、5人いたが、皆、馴染みの客がいるらしく一人もこちらのテーブルに来ない。
 
 あげくに、少しずつ常連客に馬鹿にされる始末。しまいには“ガンをつけ合って”雰囲気が悪くなってきた。
 
一触即発。喧嘩になりそうに見えたのであわてて制止し、支払いを済ませ何とか店を出てきたのだが。
 
何とも情けない、ほろ苦い“バー”の思い出、飲み屋デビューとなった。
 
 

アキトの履歴書 38

2010.04.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期2~ローメン)
 
 昭和30年代後半。娯楽と言えば、映画、パチンコ、ラーメンを食べに出ること位だった。
 
 ある時、隣町の伊那にうまいローメン(注1)屋があるので食べに行こうと、仲間数人で電車に乗り出かけた。
 
 入舟(注2)だったと思うが、近くに2件パチンコ屋があり、パチンコで一稼ぎしてから
 
ローメンを食べようという事になり、お昼までに2時間ほどあったのでパチンコをしていた。
 
 小一時間過ぎた頃に、手持ちの小遣いをほとんど使い果たした仲間の1人が私のところに来、
 
少し玉を回してはいたが、また1人、スッたと言って近くに来たので
 
「おい、このままではローメンどころか帰りの電車賃もなくなるぞ」
 
と、あわてて止め、ギリギリ残っていたお金で何とか食べて帰って来た思い出がある。
 
確かにうまいローメンだった。
 
現在も、あのローメンに代わるものは見あたらない。
 
 1ヶ月働いて給料が6~7千円の時代であったので、派手に使えばそのローメンにもありつけないところだった。
 
 
(注1)
 
 ローメンは、マトンなどの肉とキャベツなどの具となる野菜を炒め、それに蒸した太めの中華麺を混ぜ加えた、
 
長野県伊那地方の特有の名物麺料理。
 
 ラーメン用のスープを加えるもの(ラーメン風)と、加えないもの(焼きそば風)があるが、
 
そのどちらとも異なる独特の風味の料理である。好みにより、にんにく、油、酢などをかけて食べる。
 
 今では、ローメンをメニューに載せている店は伊那地方で100軒近い。
 
 
(注2)
 
 入舟(いりふね)は伊那市の中心部にある地名。伊那は、南アルプスと中央アルプスに挟まれた
 
伊那谷の北部に位置する町で、その中心地近くに天竜川が流れる。
 
天竜川とJR飯田線の線路脇にあるのが飲み屋街として知られる入舟である。
 
 かつて、人口規模のわりには飲食店が多い街として、全国で5本の指に入ると言われた事もあるほど。
 
現在でも多くの店が軒を連ねる。
 
 
 
 

アキトの履歴書 37

2010.04.10

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期1~成人式とタバコ)
 
 中学生の頃より、野球界では長嶋の巨人デビュー、(少しして、“ワンちゃん”王貞治も登場する)
 
映画界のスーパースター裕次郎の活躍等、時代のヒーロー達が、マスコミ・スクリーン等のメディアを通じて
 
若い世代の我々の仲間内でも話題になり、憧れの的になっていった。
 
世はまさしく「巨人、大鵬、玉子焼き」
 
二十歳になる同世代の仲間が大勢いた当時は、成人式が村の行事として定着する“はしり”であった。
 
こぞって、上下、三つ揃いの背広を自分に合わせ、特注仕立てで購入することが成人の証(あかし)。
 
私も知り合いの店に出向いて、寸法取り・サイズと生地の選定をして、少し大人になった気分を味わった。
 
裕チャンの真似をして、背広はサイドベンツにして作ってもらった。
 
しかし、それも結局、色柄が気に入らず義兄にあげてしまい、1、2回ほどしか着ていない。
 
零細企業の職工の私には、成人式以外で背広に袖を通す必要も、機会もなかったのだ。
 
 成人式は一日かけ、村の中学校で行われた。例年通り作法室でのセレモニー、体育館での写真撮影。
 
終了後、隣町の駒ヶ根に数人で映画を観に行った。
 
その途中、タバコを買って初めて吸ったのだが、少し吸いこんだ瞬間、めまいと吐き気で立っていられず、
 
その場にしゃがみ込み、しばらくこらえていた事を憶えている。
 
以後、カッコ良さで吸っていたが、最初の夜、自室で空き缶に寝タバコをしていて、父の知るところとなった。
 
「とにかく火事だけは起こすな」
 
と言われた。
 
火を点けて1、2センチで消す状態が常だったので、父は
 
「そんなもったいない吸い方なら止めたらどうだ」
 
と、よく言ってもいた。
 
当時はフィルターのないタバコであったので、父は吸い残しをバラして紙で巻き直したり、
 
キセルで“私の残り”をよく利用していた。
 
それが、今ではすっかりヘビースモーカーとなってしまっている。
 
 

 

アキトの履歴書 36

2010.02.27

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(祇園囃し入門~10代最後の夏~ Ⅱ)
 
 初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうとなった。
 
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ。
 
 当時、少しばかりの貯金をはたき、夜行で東京に行き、乗り換えて三浦半島方面へと電車で向かった。
 
 海の近くの店でモリと水中メガネを買って、海岸沿いの海の家で泊まることにした。
 
 この時、海の岩の周りを潜って魚を取ったが、天竜川の魚と違って何かごつい魚だったのを記憶している。
 
更に、これまたごつい岩に貝がびっしり付いていて足が傷付いたのには驚いた。
  
 魚取りの後、今度は泳ごうということになった。
 
天竜河童の私は張り切り、喜び勇んで皆と一緒に沖の方へと泳ぎだして行ったまでは絶好調。
 
途中、境界の浮玉を越えてなお、更に沖へと泳いでいた。(遊泳禁止の線を越え)
 
 ところが、他の仲間はと振り返れば、とうに引き返しており、誰一人付いて来ていない。
 
あわてて引き返して境界の浮玉につかまって一休みしようとするも、浮くどころか私と一緒に沈んでしまう。
 
“しまった!”
 
帰りのことまでは、気にもかけていなかったのである。
 
後は必死だった。
 
 とにかく泳いで泳いで、ぼつぼつ(そろそろ)足が着く頃かと立とうとしても、
 
まだまだ深く、海水は鼻から容赦なく入ってくる。
 
命からがらとはこういうことかと思い知らされたのだが、それでも何とか浜にたどり着くことが出来た。
 
 こんな訳で19の夏の思い出は、文字通り塩辛い、しこたま塩を食らった思い出となった。
 
 

アキトの履歴書 35

2010.02.18

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(祇園囃し入門~10代最後の夏~)
 
 ちょい悪仲間のグループ共々、青年会にも入った。手始めに“やらされた”のが、祇園祭のボランティア活動である。
 
 当時は、学校を卒業すると入会の勧誘があり、先輩に男女を問わず声をかけられて入会したものだ。
 
宮田の町青年会は、他部落と違い、伝統ある祇園祭を一手に担っていたので(神事以外)、大勢の人手が必要だった。
 
5月の連休を過ぎた頃から7月14日の祭りの当日まで、囃しの笛・太鼓の練習、踊り(3曲)を習得するために
 
大変な労力を要す、一大事業となっていた。
 
 初めての時は、それは恥ずかしいもので、途中逃げ出したくなる位の“素人の旅芸人”であったから
 
無理もなかった。
 
 十人十色だから山浦さんの踊り師匠の下で、毎年新曲を教えられたものだ。
 
今思えば、出来の悪い私たちに対して、よくまあ粘り強く教えて下さった。
 
素晴らしいボランティアの先駆者であった。
 
 その昔、村が栄えた時代には春日屋に芸子をしていた経験があるとの話を先輩に聞いた。
 
何でも、若い頃はすごい人気で、村内外の男たちが競争で指名争いしたほどだったと。
 
それほどの師匠であったのだ。
 
当時は山車が壊れて組み立てられないため、木社(宮田木材)のトラックの荷台をオープンにして、
 
大太鼓、小太鼓、大川、鼓、三味線は荷台の上に、
 
笛の囃し方の10~15人は歩行しながらの行列で町じゅうを練り歩き、町内各所で止めては手踊りの披露をして、
 
ご祝儀を頂いて廻ったものだ。(当時は引き子はつけていなかった)
 
バッテリーを利用してスピーカー、レコードをかけても行なった。
 
 私は、先輩の平沢勝氏(故人)より鼓を教えられた。手の皮が剥けて痛くなるまでやった。
 
うまくならないと音が“カポン”と出ない。とにかく苦労した。
 
 初めての祇園祭が終わり、ようやく祭りから解放された時、10代最後の思い出に海へ行こうという話になり、
 
ちょい悪の小島君の提案で、5、6人で連れだって逗子へ行くことになった。
 
 彼は都会育ちで、小学校時代は女優の“松原智恵子”と机を共にしていたそうだ。
 
また、湘南地方で海水浴、魚取りと、よくして遊んでいたそうである。
 
 
(不定期で連載。回数は未定)