小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 56

2014.08.27

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:男の花道と運命の出来事)
 
 町青年会の例年の行事である新入会員の勧誘に行った。
 
町3区の中村さんというお宅に行けば、青年会に入ってもらえそうな人がいるとの事だった。
 
ほどなく中村と書かれた表札を見つけ、氏名が並んだ中に“美千子”とあったので、玄関に入り
 
「美千子さんを呼んで下さい。」
 
と“本人”に出てきてもらい、
 
「青年会に是非とも入って頂きたいのですが。」
 
と告げたが、どうにも変な顔をしている。
 
そして、
  
『私じゃない、姉さんだと思います。』
 
と言う。実は、該当する本人と思い込んで説得していたのは、妹の美千子さん。まだ学生。
 
とんだ赤っ恥である。
 
 また、偶然にもこの中村家は、
 
以前おまじないをお願いした“偉いお爺さん”(福太郎翁)のお宅であったと後日知った。
 
《注:私が中学生の頃のテンプラ鍋爆発事故(=私がドーナツを作って食べようとした際、
 
鍋の中の加熱した油が飛び散り、私の妹の顔が大火傷で大変なことになった事件)で
 
火傷の傷痕が残らないようにと、おまじないをお願いした》
 
 私の妹は、今はきれいにスッキリ完治しており、返す返す、思い出すたび良かったと感謝している。
 
それから、“中村よう子”さんが町青年会に入会してくれたのだが、
 
まさかこのよう子さんと、後に結婚することになろうとは、この時点では想像もしていなかった。
 
 私は春から青年会長になったばかりで、祭りの大役も果たさなくてはならず、父には
 
「今年は祇園祭の主役もこなすので、夜の仕事は全て出来ない。青年会行事のある時は、そちらを何よりも優先する。
 
また、若干お金も余分に欲しい。」
 
と話していたし、とにかく祭りを成功させる事だけを考え、どうしようかとそれきりで頭がいっぱいだった。
 
 そして、
 
“どうせ私にとっても一回限りの会長職。自分の考えられる限りの盛大な祭りにしたい”と頭を張り巡らし、
 
“そうだ、自分が子供の頃見た祇園祭に少しでも近づけたい。
 
三六災害時から何故屋台(山車)のひき子を取り止めてしまっているのか、
 
なぜ今は祭りが一日だけとなっているのか”と考えた。
 
私でできることがあれば挑戦する気で進めてみよう。今年は何とかして祇園囃子に子供の参加をお願いして、
 
ひき子行列をプラスできないかと思案した。(子供の)参加が可能となれば、久しぶりの本来の祭り復活につながり、
 
皆が賑やかで喜ばしいことになると思ったのだ。
 
 早速、私は小学校を訪問し、校長先生に
 
「何とか(祭りの日の)7月14日を半日に、学校を午後休みにして頂けないでしょうか。」
 
と頼み込んだ。
 
突然の訪問で私がその話を切り出したのだが、校長先生は、
 
『話は解りましたが、今この場で私の一存では決められない。県の教育委員会にお伺いをしてみますので、
 
1週間ほど結果が出るまで待って欲しい。』
 
とおっしゃって下さった。
 
 ちょうど1週間後に連絡があり小学校に行くと、校長先生は開口一番、
 
『小木曽さん、許可が下りましたので祇園祭の14日は半日とします。但し、万一事故等トラブルが発生した場合は、
 
来年からは許可が出なくなりますよ。』
 
と教えてくれた。
 
「判りました。無事立派な祭り行事にいたします。本当にありがとうございました。」
 
と返答し、その足で、すぐに氏子総代会長(花井家具の初代社長)のところへ行って報告した。
 
「そうか。賑やかにして頂ければ私共の面子(メンツ)も立つし有難いことだ。
 
予算は余分にかかるとは思うが、そちらは任せろ。」
 
とのお話を頂いて、私は本当に“やった!”と思った。
 
 
※祇園囃子(ぎおんばやし)
 
 神輿は町内を練り歩く。その前に行程を清める意味で、囃し連が先に練り歩くもので山車(だし、屋台)と呼ぶ。
 
屋台を杉の小枝で賑やかにし、2階の先頭部分に、毎年、年代物の人形を飾り付け、
 
稚児のひき子行列をなした一大行事である。
 
昔は7月14日、15日の2日間に渡り、行われていた。
 
 

アキトの履歴書 55

2014.08.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:母のカミナリ)
 
 サブをやった時の祇園祭。神輿の壊しで無事終了かと思ったが、最終の石段の上で、
 
『三役に任せろ!』
 
の掛け声が飛び、私を含む3人で
 
十の字だけになった(既に大半は壊れているので)神輿の心棒を撚り合い(よりあい)、
 
後は会長独りで叩き付け心棒が折れる寸前となるところまで、お膳立てをしっかりやった。
 
 そして、心棒から少し上の位置で通してある楔(くさび)の部分を何回か打ち付けるのだが、なかなか折れない。
 
何回か繰り返しているうちに1回、(心棒が)まともに跳ね返って私の目の眉毛をかすった。と思ったら、
 
生暖かいもの(鮮血)がピューッと吹き出た。あわてて豆絞りで目の上を縛り付ける。
 
正に皮一枚のところで事なきを得た。会長の最後の心棒の破壊もヨイショ、ヨイショの掛け声で恰好がついた。
 
そして、大三国の花火の下を喜び駆け回った。両肩はもちろん、神輿担ぎで赤剥け(あかむけ)になった。
 
 この赤剥けは毎年のこと。
 
完治するまでシャツがくっついて、結局、お盆を迎える頃までなかなか治らずにいたことも懐かしい。
  
 この年の夏、町の支部会でキャンプ場に行き、花火を繋いで100メートルほどの“ナイヤガラの滝”を作り、
 
派手に盛り上がった。
 
 そんなお祭りの時期が過ぎた後は、仕事の山が待っていた。日発へ行ったり戻ったりの忙しい日々が続いていた。
 
 そんなある日、私が日発へ出かけて工場を留守にしていた際、後輩の娘(役場勤務)から電話がかかってきた。
 
私を呼んで欲しいとの内容らしかったが、これに応対した母が
 
『男が一生懸命仕事をしているのに、とんでもない女だ』と言ったらしい。
 
後で彼女本人に聞いてみると、
 
どえらい剣幕で『昼間には二度と電話をするな』と言われたそうだ。
 
 そんな事件があり、
 
「(母が恐くて)もう、あなたとは付き合えません。」と言われ、
 
私は見事に振られたのだった。当時の村役場は、何人かの若い女性が交代で電話番をしていたようだ。
 
私から逃げてしまわれた彼女は、それから数年後に郵便局に勤める方と結婚したが、
 
60歳を少し過ぎた頃に病死したと聞く。
 
 あの時、母のカミナリがなかったら、結婚するも私は早々にヤモメになっていたか知れない。
 
この頃は、今までの仕事が右肩上がりで、増々大量になっていくばかり。国中が懸命に働き、お金を貯めては
 
欲しかった家電製品を買い足して、いわゆる家電の『三種の神器』(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)という成長の象徴、
 
豊かさを求め実感するという時代。日本の社会、経済は活気に溢れており、集団就職列車で東北から上野を目指し、
 
南は沖縄、九州からも“金の卵たち”(中卒の若者)が続々と東京へ向かった。
 
 日発でも、一時、九州から中卒で100人位の集団が来た際、
 
シート工場(名古屋、トヨタ向)立ち上げの2~3年の現場は見習い実習生で溢れていた。
 
 私の工場では、本田向の二輪車(バイク)のブレーキシュー(スプリング)が、これまた、増産に次ぐ増産で
 
月産30万~45万個という数をこなすため、毎日フル生産に追われていた。
 
 
※ ブレーキシュー:二輪車(バイク)のブレーキ部分に使われるばね。
 
二輪車1台につき、前輪、後輪部に各2個使いで計4個必要となる。
 
重要保安部品の指定があり、当時の弊社では唯一、厳格なロット管理を徹底し流動していた。
 
 

アキトの履歴書 54

2014.08.15

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:会長となる)
 
 三役(青年会の)も無事任期を終え、景気も仕事も右肩上がりで多忙な毎日であった。
 
そろそろ町の青年会を抜けようかと考えていたところ、小坂屋(小田切氏)の次の会長をと、
 
先輩、仲間の会員から是非やって欲しいと何回も言われていた。
 
 しかし、私は首を絶対に縦に振らずにいた。やりたくなかった。
 
何度も、何人にも口説きに押しかけられても頑固に断り続けていた。
  
終いには、他の地区の、私にとっては信用あるI先輩が乗り込んできて、
 
「大勢がお前さんが良いと言っているのだから、受けてやったらどうよ。
 
今ここまで期待されて、それでも尚、断ってしまっては町の青年会、村の他地区の若い衆がガッカリするぞ。」
 
 I先輩にまで口説かれ、私は逃げ場がなくなってしまい、とうとう一大決心をしたのであった。
 
ただ、そういっても私自身、左っぽい人達を追い詰めて騒動となったので若干気が引けてもいた。
 
だが今はその関係も絶え、村内の他地区も一件落着し、喜び、意気投合した状況だったので、
 
中立無党派の立場なら誰にも気兼ねせずにいられるだろうと、“まあいいか”と腹を決めた。
 
 毎年5月1日のメーデーは、うちの小さな町工場に労組があるわけでもなし、
 
私にとっては何の意味もない一日だが、
 
宮田の駅前には、労組のある職場から、役場、タカノ、日発、山田、とそれは賃上げ要求の人達の集まりで、
 
大層な行事となる。自分達の身勝手な要求ばかりで、経営者と労働者のイタチゴッコがエスカレートしていく。
 
そんな時代になっていた。
 
 青年会でも、
 
「度が過ぎると会社が倒産してしまうよな。」との話も出たものだ。
 
 それからの5~6年で世間一般的にも、大手と下請け(零細)の給与格差は大きく広がった。
 
 私の工場は下請けなので、毎年のベースアップのペースについていけなくなっていた。
 
それでも、昇給額が4ケタのうちは、仕事を増やして格差を最小限に、との思いで
 
残業もしてもらってフォローしていたが、5ケタの昇給が大手で始まった時には、流石に、
 
ついて行くどころの話ではなく、それこそ色んな意味で苦労の連続の始まり、
 
零細企業受難の幕開けともいうべき時代にさしかかり始めていた。
 
 だからこそ、自分が若いうちに大役をやって、早く、本業の仕事の方に本腰を入れるぞと覚悟を決めたのだ。
 
 

アキトの履歴書 53

2014.08.14

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期:心おどる青春)
 
 町の青年会は、祇園祭を苦労しながらも団結して行う大きなチームとして、地域に認められていた。
 
祭りでご祝儀を頂いていることで、少々のお金もあり、その使い道は飲食ばかりでなく、
 
皆で楽しむ行事にも回っていた。団体事業ばかりでなく小グループの活動としても役立てていた。
 
 当時の一般賃金は、1ヵ月 8,000円から9,000円位だったが、(注:1960年代半ば)
 
出来るだけ個人の持ち出しをなくし、色んな行事に使ったので楽しいことも多々あった。
 
 ドライブにも何回か行った。あの頃、乗用車は村内でも3~5台位しかなく、ペーパードライバーが多い時代。
 
レンタカーを借り、若干の運転経験がある人の運転でもって、“遠乗り”と称して出かけるのだ。
 
この頃には、我が家にも父が東京の親戚から買った“セコ”の乗用車セドリックがあり、ドライブには好都合。
 
伊那市でレンタカーを2台借り、合わせて3台ほどで皆とよくドライブした。
 
木曽の目覚めの床、蓼科、白樺高原、戸隠バードライン、善光寺等々。当時ドライブは流行の最先端。
 
夢のようなひと時だった。
 
 ダンスも流行った頃で、伊那のエスカイヤ(その昔、ギター類を製造していた)の倉庫にもよく行った。
 
私は全くの素人だったが、仲間の内に知っている者がいて、土曜日の夜になると数人が私の家に集まってきては
 
車に乗り皆で出かける。
 
 たしか、ダンスホールの近場に小さなお社があり、よくそこに車を駐車していた。
 
初めての時は私は運転手として行ったので、“ゲタ履き”だった。薄暗い建物の中に入って見学していると、
 
ダンスにも色々の曲があり、ブルース、ルンバ、ワルツ、ジルバ、マンボ等々を、恥も外聞もなく、
 
ペアになった若者が真剣に踊っていた。
 
 私みたいな者でも、空いている(相手がいない)女性の前に行って
 
「お願いします」と言えば、誰でも相手をしてもらえたのを覚えている。
 
とは言っても、初っ端に赤っ恥をかいた私は少し位のステップを覚える気になり、
 
ダンスの初心者向ステップの本(中川一家)を買って、少しだけかじってから挑戦したのはいうまでもない。
 
 青年会でも小学校の体育館を借りて、ダンスパーティーを催すなど流行のはしりをした時期でもあった。
 
 映画は宮田劇場のオールナイト(土曜日の夜だった)もあり、我々若者には、新鮮な出会いや体験ばかり。
 
実に楽しい思い出である。
 
人との交流があって、つかの間の息抜きが出来るささやかな青春時代だ。
 
 

 

アキトの履歴書 52

2014.08.13

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~革新に名を借りた紛い物(まがいもの)の正体)
 
 赤い霧一掃を、私達町青年会で徹底し、中立無党派を推進したため、
 
(村一番の大所帯である)町青年会が抜けた村青年会の全体はタガの外れた状態となり、
 
村中に青年会のあり方についての大論争が巻き起こった。
 
この後数年で村中の青年会・各単会が消滅することになるとは、私達も全く考えてもいなかった。
 
 離脱の象徴となった一件は、町青年会員全員と村、郡の連合役員幹部との討論会だった。
 
自主独立のはずの各青年会単会へ、左翼かぶれの行事等の参加・協力の押し付けはおかしい、
 
とんでもない状況である。
 
今後はこの場以降、一切の係わりを断つ。という総会を開いた。
 
 色々な発言があったが、決定的な質問となったのは、
 
『皆さんは一体、何を目標にして、どんな世の中にしたいのか。それは、実際に日本に合うのか、出来るのか。
 
答えをちゃんと言って下さい。』
 
であったと思うが、彼らは全く返答が出来なかった。
 
 こんな人たちの押し付けはまっぴらごめんだという事で、町青年会は村全体の組織から独立した。
 
 この年の冬、私が戸隠に年末年始の連休中、毎年のように何人かでスキーに泊まり込みで行って帰ってみると、
 
小田切氏が血相を変えて家にきて、
 
「小木曽、えらいことになっているぞ」と言う。
 
 追い詰められた共産党かぶれの人等が、いわゆる“アジビラ”を、事もあろうに村内と近隣の市町村の一部にまで、
 
新聞の折り込みチラシの全戸配布の要領よろしく配っていた。
 
文中には名指しの“小木曽”がゲラ刷りされている。
 
全く身に覚えのない文面にビックリする他なかった。それは、
 
・・・・・
 
私がある国会議員からお金を受け取り、共産党(の青年部組織)を貶して(けなして)大混乱に陥れた
 
・・・・・
 
だったが、全くのデタラメ、架空の話で思わず笑っちゃうほどの内容に、
 
たまげたと同時にバカな連中だとあきれたのだった。
 
 私の名前と、全く知らない国会議員の名前まで挙げて、書いてあるそのビラを、いつかの証拠として、
 
しばらくの間手元に残してはみたが、相手するにあまりにバカバカしく、
 
村民の内でも取り立てて話題にする者もいないようだった。
 
 このことは、私が、早く青年会を卒業して身を固め仕事に精を出したほうが良い、
 
こんなバカな連中と付き合うのは御免だ。と思う一因となった。
 
 中越、大久保以外の各単会の方々から、
 
『新しく青年会組織を発足して会長を』とも言われたが、固くお断りを通した。
 
多少恨みを持った方もいたと思うが、私たちの年代以降、
 
ここ宮田村で、共産党が表立った活動を青年会では出来ないこととなり、結果良かったと考えている。
 
 今から半世紀ほど前の話。私が21、2歳の頃のことだ。
 
 
(注:1964、65年頃)
 
(意見には個人差があります。不定期で連載。回数は未定)