進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。
アキトの履歴書 41
2013.05.21
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期5~疑問)
高校卒業の翌年(昭和37年)は、私が地元に居付いた関係で、同級会の幹事を任された。
男子は私、女子は林 洋子さん(地元、駒ヶ根在住)で、
正月に鳥三食堂(同級の小出 孚(マコト)君の兄の店)で行なった。
初年度だったので参加者は3分の1程度だった。
記憶に残っているのは、皆が帰った後、数人で小部屋で朝まで語り合ったこと。
当時は学生運動真っ盛りの頃だったから、日本の将来の形(政治経済)の話になった時に、
京大に行った気賀沢君はマルクス・レーニン主義。
小出君は近代経済学。
を主張し合って、互いに譲ることなく延々と朝方まで言い争っていた。私は第三者的な思いで聞いていたが、
大学で勉強するというのは、入った先の学校や本、先生の教えに、まあよくも染まるものだなと驚いた。
やはり、田舎育ちの人間は、純朴で素直で染まり易いものなのだと感じた。
今思えば、村の青年会の幹部連中が共産党にかぶれ、その受け売りで大方も染まっていったのも同じことだろう。
ただ、一旦染まったものに疑問を持てない人は、そのまま信じ込んで(思い込んで)しまい、
より良いものを探したり、考えを修正しようとせず、気に入らなければ何でも他人や国の政治のせいにする。
『反対』『反対』で、他人のことは気に掛けず、良くも悪くも自分の主張を繰り返し
小さな殻に閉じこもる人間になってしまうことが多いと思われてならない。
もとより、自らの考えがない故に、左翼に染まった先輩たちは、
先端、先駆けのごとくの言い回しに陶酔、感心している人が多いのだろうと、私は笑えて仕方なかった。
そんな私には中学生の時から頭にこびりついていることわざがあった。
『最後の勝利は、決勝点(ゴール)にあるのではなく、ゴールに到達するまでの努力にある』というもの。
自分は努力しないで他人を悪く言う。あるいは、偉そうに組織の幹部に居座り、全てを政治や国のせいにし、
出来もしない現実離れした話をして、皆を扇動する人が滑稽であり、
結局のところ、我々には良いことはないと考えていた。
こんな人たちがリーダーでは、いつかおかしくなるのではと思ったが、私は青年会に入ったばかりの“新人”だったので、
心の中では『我が道を行く』と腹に決めていた。
この頃はイデオロギーの話で『革新』に名を借り偽善者ぶるのが流行り、巷に溢れているような状況だった。
村内の青壮年の多くが、社会党支持と共産党かぶれであったため、村長だった小田切行雄氏が県議に出馬する時も、
広く支持を得るべく民主クラブとして中道的なスタイルをとったのも頷ける。
その後、小田切氏は県議を長期に渡り務めたが、県全体からみれば力不足で副議長止まりであった。
しかし、郡部(上伊那地域)では、絶大な支持と力を発揮。時代背景も良い巡り合わせであったため、
治山治水等、インフラ面では強みを示し、地域貢献に一役買った。
(意見には個人差があります。不定期で連載。回数は未定)
アキトの履歴書 40
2010.04.27
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期4~青年会とは)
青年会のボランティア活動の主なものは、町の祇園祭。お祭りの準備から終わりまでの全てを担い、
取り仕切る事が使命となっていた。
会員をまとめ、組織を挙げて活動していくには、皆の協力、盛り上げは必要不可欠。
殊に青年会長の役割は重大であり、その力量、資質はかなり必要で、当時会長になった者は、
仕事よりもお祭りを最優先に考え、行動する一年間であったと言っても大げさではない。
毎年、タツケをつけて、昔の越後獅子の子どもの様な格好になって、津島神社前の塚本で
少しばかりの化粧をしてもらい山車について行ったものだ。
当時はまだ現代の様な車社会になっておらず、朝夕は宮田村内企業の通勤者と通学者で
6:00から8:30の間は大変な人の出入りがあり、宮田駅は休日以外混雑の時間帯だった。
そのため、雪が10センチ以上積もった早朝は、駅前から山田工業(現TBM)までのいわゆる通勤道路の雪かきも、
青年会のボランティアとしてよくやった。朝5:30位から7:00頃まで、自宅のそれより優先して参加していた。
他には町公民館の図書管理もやっていた。
当時の町区はまだ1、2、3区に分かれておらず公民館は一体で運営されており、
敬老の祝いなども合同で行われていた。
また、現在の小学校がある場所の東側に役場があり、消防の本部を兼ねていたため、
そこにある、村で唯一のポンプ小屋には、ポンプ車が2台常時配備されていた。
当時、私も消防団員の一員として“ポンプ操法大会”がある時季には、郡大会までかり出されたものだ。
町青年会に入って、祭り以外の活動にも少しずつ係わる事になっていった。
そんな時、村全体の若者の間で語り合う集会、そのテーマの一つに「恋愛と結婚」というのがあった。
その際に多くの女子が、
“結婚と恋愛は別物である”と考えていると聞いて、私の考え方とはずいぶん隔たりがあるなと感じた。
私は、結婚を前提としてでなければ、それはただの知人、友人、仲間であり、付き合ってもいないし恋人でもない。
“恋愛は自由であり、別物である”などとする考えを、当時は全く理解できなかった。
また、別のテーマの集会でも私の記憶に残る主張をしていた人がいた。
大久保の林君(1級上の人)だったが、彼はその時
“自分は8ケタ農業経営を目指す”(千万単位の農業収入)と主張していた。
それは「ホラ」ではなかった。その後、かなり年を経てからだが、彼はそれを実現し、
“ブタ御殿”まで建てた人物となった。
しかし数年前、名古屋で接待旅行中に急死したそうだ。酒が悪かったと聞いている。
また、あの当時は社会主義、共産主義の考え方や影響がかなり強く、村青年会の幹部は言ってみれば
左翼一辺倒の人たちで占められていた印象があった。
それは、私の様な無党派人間にとっても、相当なストレスを感じるくらいの風潮であった。
アキトの履歴書 39
2010.04.19
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期3~バー)
その頃、宮田に初めてのバー「バー志摩」が出来た。
「竹松屋のお好み焼き」
「中原亭のラーメン」
「万里の焼きそば」は、それまでにもあったが、隣町の伊那市まで行かないと
“バー”という若い女性の居る店は、ここ宮田村にはなかった。
清村の妹さんがやっていた店だったが、当初は珍しくて元気のある人、稼ぎの良い人でないと行けなかった。
ビール1本250円なりと聞いていた。
ちょい悪仲間で一度行こうという話になりはしたのだが、一人ではとてもお金がないし、何より勇気がない。
それでも、小島君がどうしても行こうと言うので相談した結果、4~5人が手持ちのお金を全部出しあったところ
1,000円ほどあることが確認出来た。
「よし。これでビール4本分ある」
「1本で30分は粘れる(ねばれる)」
と、店に入った。
そして、なけなしのお金でもって、チビチビとビールを注文した。
店の中には若い女が4、5人いたが、皆、馴染みの客がいるらしく一人もこちらのテーブルに来ない。
あげくに、少しずつ常連客に馬鹿にされる始末。しまいには“ガンをつけ合って”雰囲気が悪くなってきた。
一触即発。喧嘩になりそうに見えたのであわてて制止し、支払いを済ませ何とか店を出てきたのだが。
何とも情けない、ほろ苦い“バー”の思い出、飲み屋デビューとなった。
アキトの履歴書 38
2010.04.16
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期2~ローメン)
昭和30年代後半。娯楽と言えば、映画、パチンコ、ラーメンを食べに出ること位だった。
ある時、隣町の伊那にうまいローメン(注1)屋があるので食べに行こうと、仲間数人で電車に乗り出かけた。
入舟(注2)だったと思うが、近くに2件パチンコ屋があり、パチンコで一稼ぎしてから
ローメンを食べようという事になり、お昼までに2時間ほどあったのでパチンコをしていた。
小一時間過ぎた頃に、手持ちの小遣いをほとんど使い果たした仲間の1人が私のところに来、
少し玉を回してはいたが、また1人、スッたと言って近くに来たので
「おい、このままではローメンどころか帰りの電車賃もなくなるぞ」
と、あわてて止め、ギリギリ残っていたお金で何とか食べて帰って来た思い出がある。
確かにうまいローメンだった。
現在も、あのローメンに代わるものは見あたらない。
1ヶ月働いて給料が6~7千円の時代であったので、派手に使えばそのローメンにもありつけないところだった。
(注1)
ローメンは、マトンなどの肉とキャベツなどの具となる野菜を炒め、それに蒸した太めの中華麺を混ぜ加えた、
長野県伊那地方の特有の名物麺料理。
ラーメン用のスープを加えるもの(ラーメン風)と、加えないもの(焼きそば風)があるが、
そのどちらとも異なる独特の風味の料理である。好みにより、にんにく、油、酢などをかけて食べる。
今では、ローメンをメニューに載せている店は伊那地方で100軒近い。
(注2)
入舟(いりふね)は伊那市の中心部にある地名。伊那は、南アルプスと中央アルプスに挟まれた
伊那谷の北部に位置する町で、その中心地近くに天竜川が流れる。
天竜川とJR飯田線の線路脇にあるのが飲み屋街として知られる入舟である。
かつて、人口規模のわりには飲食店が多い街として、全国で5本の指に入ると言われた事もあるほど。
現在でも多くの店が軒を連ねる。
アキトの履歴書 37
2010.04.10
カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書
(青年期1~成人式とタバコ)
中学生の頃より、野球界では長嶋の巨人デビュー、(少しして、“ワンちゃん”王貞治も登場する)
映画界のスーパースター裕次郎の活躍等、時代のヒーロー達が、マスコミ・スクリーン等のメディアを通じて
若い世代の我々の仲間内でも話題になり、憧れの的になっていった。
世はまさしく「巨人、大鵬、玉子焼き」
二十歳になる同世代の仲間が大勢いた当時は、成人式が村の行事として定着する“はしり”であった。
こぞって、上下、三つ揃いの背広を自分に合わせ、特注仕立てで購入することが成人の証(あかし)。
私も知り合いの店に出向いて、寸法取り・サイズと生地の選定をして、少し大人になった気分を味わった。
裕チャンの真似をして、背広はサイドベンツにして作ってもらった。
しかし、それも結局、色柄が気に入らず義兄にあげてしまい、1、2回ほどしか着ていない。
零細企業の職工の私には、成人式以外で背広に袖を通す必要も、機会もなかったのだ。
成人式は一日かけ、村の中学校で行われた。例年通り作法室でのセレモニー、体育館での写真撮影。
終了後、隣町の駒ヶ根に数人で映画を観に行った。
その途中、タバコを買って初めて吸ったのだが、少し吸いこんだ瞬間、めまいと吐き気で立っていられず、
その場にしゃがみ込み、しばらくこらえていた事を憶えている。
以後、カッコ良さで吸っていたが、最初の夜、自室で空き缶に寝タバコをしていて、父の知るところとなった。
「とにかく火事だけは起こすな」
と言われた。
火を点けて1、2センチで消す状態が常だったので、父は
「そんなもったいない吸い方なら止めたらどうだ」
と、よく言ってもいた。
当時はフィルターのないタバコであったので、父は吸い残しをバラして紙で巻き直したり、
キセルで“私の残り”をよく利用していた。
それが、今ではすっかりヘビースモーカーとなってしまっている。