小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 51‐2

2014.08.12

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年会と政治活動~2)
 
 それは確か、
 
“原水爆禁止広島大会”とやらに、共産党、社会党の主導に染まった連中の命令か指示なのか、に従って、
 
“参加費用を捻出するため、各部落ごと、資金カンパをせよ”
 
との話があり、青年会員に対して各地区、班割りで、一人ずつが数十軒を訪問し、
 
一口幾らでも良いのでお金を集める旨の指示があった。
 
当時、私も何も考えなしに全く見ず知らずの家にまで廻らされた。
 
その時、伺ったお宅で印象に残っているのは、障子はなんともボロボロで、応対に出てきた母親とおぼしき方の、
 
いかにも弱々しい姿であった。
 
役目上、『いくらでも良いので』と、お金の無心を切り出し、5円玉と2~3円を頂戴してしまった。
 
そのお宅から出てきた私は、
 
“何でこんなことまでして、貧乏人からまでお金を集めなくてはならないのか”と、
 
自責の念にかられた。
 
 ここにきて、もう社会党、共産党はとんでもない連中の集まりで、自分勝手な人達で、他人の事情も一切構わず、
 
ひどいことを平気でするものだと憤った。
 
 これ以降、絶対に左翼のいう事は聞かないぞ、と決意をした。
 
本当に広島へ行きたいのなら、手弁当で行くべきだし、お金が必要なら田畑を売ってでも行けばいいではないか。
 
 津島神社の前に貸切バスが来て、皆で集めたお金で、ピクニックか旅行気分で出かける姿がありありと見えてきて、
 
とても、腹を立てずには居られなかった。
 
 それから後の正月休みに、小田切村長宅にK君と二人で訪問した。奥さんが出てきて
 
『昼間飲んでしまって、今は横になっている(寝ている)』
 
と言われたのだが、若い勢いそのままに、無理に起こして面会させてもらった。ご本人が起きてきて顔を出し、
 
『おお、よく来てくれたな。まあ、正月だから上がれ。』
 
『(奥さんに)酒を出せ』
 
と、酒まで出して勧めてくれ、この時、村の青年会の左翼への傾斜等、現実の話をかなりした。
 
そして、
 
『私どもの「町青年会」は社会党、共産党の団体ではないので、
 
郡連かぶれの村の青年会組織からは離脱する』旨の話をした。
 
 しかし、これが元で村中の噂となり、その影響は他部落にも波及し、次々に左翼から離れる動きとなって
 
“赤い霧一掃”と呼ばれることになる。
 
  
(意見には個人差があります)
 
 

アキトの履歴書 51

2014.08.11

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年会と政治活動)
 
 私が20才になって初めて、国政選挙で選挙権を持ち投票したのは、町の亀屋の主人、小木曽幹夫氏の推挙する
 
吉川久江(キウエ)氏。農業関係の国会議員だった。
 
 成人式が終わるとすぐに、私の家に来て、親父に話をしていった。私も、あの当時は何も知らずに
 
言われるがまま投票していた。国会議員として当選した後日、記念の品(バックルに菊のご紋の付いたベルト)を
 
頂いた事を憶えている。その頃は中選挙区制で、この南信地方には3~4名の国会議員がいた。
 
主な“縄張り争い”は、岡谷・諏訪地区、上伊那地区、下伊那地区で、それぞれに地盤を持った人達で代表が決まる。
 
下伊那は中島がん、上伊那は吉川久江、諏訪地区は小川平二、と、定番の方々が決まっていたようだ。
 
 この頃は、岡谷の共産党を標榜する林百郎氏が、各地区で今にいう“ドブ板選挙”を進め、
 
労組を廻って支持を大きく伸ばして行った時代でもあった。
 
労組のある大きな会社へ乗り込んで歩くスタイル、いわゆる全国区的な選挙活動である。
 
そのうちに、私のところの内職工場の中にまで、襷(タスキ)がけのまま本人が入り込んで、
 
やたらに握手をして去って行った。
 
 これには親父も驚くほどで、各地区への支持の浸透と広がりは、大変な勢いであったものと想像出来る。
 
しかも、おかしな事には、青年会の郡連役員になっている人達は、彼を応援する組織の中に組み込まれており、
 
各単会の長より偉い位置付けの様子であったが、こちらはそれどころではなかった。
 
 私ども町青年会では祇園祭を担うという一大行事が控えており、そんな
 
『共産党だ』、『社会党だ』の話などする暇もない。
 
それでも政治活動をする共産党員がはびこり、私のように特定の思想を持たない無党派の皆には、
 
なんとも反発する事態が起きたのだった。
 
 

アキトの履歴書 50

2014.07.24

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~青年会長の輝きと影2)
 
 苦労することが多いほど、本番の神輿の運行に始まり打ち壊しまで、男として最高の花形にして頂ける。
 
本当の男の花道を味わう気分になれるのも会長ならではのものだった。
 
 それは、当日夕方の神事が行われる時から始まる。
 
耕地(町1~3区)の氏子総代、各区の区長、商工会長と青年会長、神主らが一同に会して、
 
本殿における玉ぐし奉納の神事を執り行う時である。
 
神主が、いの一番に呼び出すのが神男(青年会長)。
 
身に余る光栄、名誉の証だ。
 
『津島様の神を、今宵、神輿に預けるにあたり、その守りと全ての運行の全権を任せるので、
 
どなたよりも偉い人(主役)の立場である』旨のお墨付き(証明)を頂くのである。
 
玉ぐし奉納が済むと、神男は本殿を降り神輿に近づく。
 
神主が恭しく(うやうやしく)息が掛からぬ様に足を運び、そして、神輿の簾を神男が開いて、
 
御神体(ごしんたい)を招き入れ、神輿の心棒に麻ひもで縛りとどめる。
 
この後、神輿の周りに担ぎ手が集まり、“神男の挨拶”に続いて少しのお神酒を頂き、引き続き、
 
めでたいめでたの独特の唄『おんたけやま』を皆で唄った後、本殿前の神輿を担ぎ上げ
 
神社の境内をしばらく“ヨイショヨイショ”で練り歩き、また一旦、元の本殿前に戻り、神輿を台に下ろす。
 
『おんたけやま』の唄をにぎやかに唄ってから、今度は、神輿を担ぎだすと同時に台持ち役が台をはずす。
 
この後は二度と神輿を境内に下ろすことはなく、神社入り口の石段を降りるまで神輿は担いだままだ。
 
いよいよ、神輿の練り歩きの始まりである。
 
 
※神男(青年会長)の挨拶(口上)
 
「神輿の出発に先立ち、一言ご挨拶申し上げます。本日ここに、伝統ある津島神社祭典が執り行われますことは、
 
氏子総代様はじめ町耕の皆様のご協力の賜物と厚くお礼申し上げます。なお、神輿の運行の順序は、
 
神社を出て南へ向かい里宮で折り返し、北へ向かい大曲がりを経て、まねやさん宅で折り返し、
 
駅へ行き折り返し、神社に戻って参ります。
 
無事に帰られるよう皆様のご協力をお願い申し上げ、会長の挨拶といたします」
 
(~この挨拶は代々会長職により受け継いでいたものだ~)
 
(不定期で連載。回数は未定)
 
 

アキトの履歴書 49

2013.10.05

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~青年会長の輝きと影)
 
 私の年より2~4年上の先輩会員が主力メンバーとして、町の祇園祭を仕切る時代がやって来たが、
 
大方の会員は2~3年の経験(キャリア)しかない。そうは言っても横笛を10曲位マスターして、
 
良い音色が出せるまでには、最低でも2~3年みっちり練習しなければ適わない。それだけの技術が必要だった。
 
 入会して、まず男子会員は笛で音が出るか、出せるのかが大変難しいことだった。
 
ある年代では横笛の上手い人にも限りがあり、ダメな人はどんなに練習しても良い音色にはなれない。
 
そんな状況で引き継いできていたので、上手な人が2~5人いた年代から、ある年に突然(実際は突然ではないのだが)
 
3人も抜けたら大変なことになってしまい、山車の囃し方の格好がつかなくなってしまう事が悩みの種だった。
 
そのため、無理なお願いをして、退会した先輩に笛だけは出て頂いていた。
 
 この頃、ある先輩にお願いに行ったところ
 
『いくら、くれるかい』
 
と訊かれたと聞き、私は
 
「そんな先輩の指導や応援なら、二度とお願いしない。こちらからお断りだ。」
 
と憤った。
 
ボランティアなのにお金を要求するなんて、とんでもない。へぼい先輩がいたものだ。
 
その方は、後に村議にもなったが挫折し、若くして亡くなられた。
 
 そんなこともあったが、協力して頂ける方々には、青年会を抜けても数年、ご指導と協力を継続してもらった。
 
本当に頭が下がる思いで、今も感謝の念に堪えない。
 
 だから、毎年、一年任期の神男(会長)になった人は、本番を無事に終えるまでの色々なプレッシャーは人知れず、
 
大変な重荷であったと思う。
  
これは、実際に背負った人でなければ苦労は分からないだろう。
 
 まさか、翌年、私自身が会長を務めることになるとは、その時は予期していなかった。
 
 

アキトの履歴書 48

2013.09.26

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(青年期~睦友会の結成)
 
 年々青年会で継承してきた祇園祭も、人数が極端に少ない年代がどうしても出来てしまう。
 
跡取りの長男か個人で商売を営む、または親と一緒に住んでいる人くらいでは、町全体でも小人数で無理が利かない。
 
結婚と同時に青年会を退会してしまうという現実もあり、ただでさえ厳しい状況になりつつあったところに、
 
ある年代のカタマリがごっそり抜けることになった。
 
私が入会した時点では、そんな厳しい状況になるとは思ってもいなかった。
 
私の年代の前後で12~15名ほどが入会しており、これでも多い年代ではあった。
 
 ところが、新入会員の素人集団だけ(私よりキャリアのあるのは4年先輩の5名)では、
 
怖い神輿(あばれみこし)には参加出来ない、とても無理だ、返納したらどうか。という話まで出始めていた。
 
そこで、皆でどうするか話し合いをし、(氏子の)町耕地全域に現状を広く訴えることとした。
 
出来る限り、祭りの人員確保と青年会への入会をお願いする。
 
また、金銭面からも商工会等の協力を願いたい。とした上で、
 
(青年会での仕切りを)継続して欲しいか、辞めても良いか、とするアンケート調査を実施した。
 
その結果、圧倒的な答えが、
 
『是非継続していって欲しい』
 
また、
 
『今では村を挙げての祭りとなっており、唯一、お客を呼べるイベントで、大切なものだ』
 
という総意が得られた。
 
 ここで辞めてしまうのが、一番楽な話だったが、よし、頑張ってやってやろうとの思いを強くした。
 
今一度、会員皆で協力し合ってやっていこうと、結束を図ることにもなった。
 
 こういう事から、私たち仲間の固い絆、親子よりも強い仲間意識が生まれ、
 
互いの立場に立ち苦楽を共にするという気持ちを共有していた。
 
 ある日、私の家に数人が集まった。小さな会を作り長く付き合っていこう、互いに切磋琢磨し、
 
仕事、家業にもこの先頑張って、資質向上に努めようとの意思でまとまり、親睦を第一とする『睦友会』を結成した。
 
“自主独立の精神に燃え、互いに協力し将来に向かって良き仲間であり続けるものとする”を旨とし、
 
当初7人で発足した。
 
新たに入会者がある場合、1人でも反対する者が出れば入会は適わないというルールだった。
 
 青年会に入って2~3年、いつの行事も協力し、一緒に時を過ごしてきたメンツであり、
 
最強、最高の仲間だった。
 
 特筆すべきことは、この仲間はそれぞれ職種が全く違っていた事だ。
 
橋本君は郵便局、酒井氏は農協、下平君は電気工事店、小田切氏は大工、近藤君は鉄工所(山浦鉄工)、
 
保科君は農業、それに私。
 
村の消防団にも橋本君を除く全員が入っているかけ出しの同志だった。
 
20歳を過ぎた頃より皆、独立志向が目覚め、サラリーマンの仲間には、起業して独立して小さくても良いので
 
“一国一城の主”になるよう、お互いに後押しするべく話し合ったものである。
 
大工の小田切氏は“棟梁”を目指し、酒井氏も家業を継ぐ(白木屋)、保科君も農業経営、私も家業を継ぐべく、
 
それぞれに意を決することとなっていった。
 
下平君には『宮田村は小さな工場も沢山あるし、電気工事店の会社を起こせば立派に成功するぞ』と、皆で勧めた。
 
本人もやる気はあったが、叶わなかった。
 
橋本君は公務員であったのでサラリーマンとして最後まで勤め上げた。
 
それぞれ目標が決まればそれに向かって進んでいったものだ。
 
 そんな中、山浦鉄工へ勤めていた近藤君が、最後に独立して鉄工所を始めたのは、大きな決断だったと思う。
 
 こんな小さな村にあっても、我々が将来に向け思い通りに取り仕切ってやろう、出来るまで頑張ろうと
 
夢を膨らませた時代であった。