小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 24

2009.09.18

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し)
 
 高校の卒業式を終え、直ぐに小木曽製作所に就職した。私は父の言うことを何でもやると腹に決めていた。
 
 学生生活を終え、社会人として世間に出て働くことに対しては、抵抗は全くなかった。
 
金銭的なことは別として。
 
 何の仕事でも私にとっては新鮮なものだったので、張り切って対応することが出来たのだ。
 
 3月の末になって、高校の同級生であった気賀沢君が突然現れた。アルバイトに使って欲しいと言う。
 
彼は京都大学への受験に失敗したのだった。東京の予備校へ行くまでの間の約2ヶ月間、私と一緒に仕事をし、
 
その後、世田谷の予備校へと向かった。
 
 年が明け昭和38年、1月も末になった頃、その気賀沢君から電話があった。
 
聞けば、体調を崩して駒ヶ根の前沢病院に入院していると言う。
 
早速、駆けつけて話をすると、あのアルバイト後、東京の予備校での猛勉強の結果、秋にはもう
 
“日本中どの大学を受験しても合格するだろう”と太鼓判を頂いているとの事だった。
 
「それは良かったな、それにしてもなぜ入院することになったのか」
 
との私の問いに、
 
「受験の準備に余裕が出来たので年末に新宿の郵便局でアルバイトをしたが、
 
空気の悪いところで無理をしたために肝臓まで悪くしてしまった」
 
と答えた。私は、
 
「早く治して大学受験しなきゃなのに、こんなところに長くは居られないじゃないか」
 
と言って彼と別れた。
 
 その後、5月の連休になって彼がやって来た。もちろん、京都大学には入学が適って(かなって)おり、
 
私のところに世話になったとお礼に来てくれたのだった。確か、風呂敷を頂いた。
 
 その頃の私はと言えば、本当の駆け出しで、日発の正門前(旧)にある、踏切り西の最初の工場(小木曽製作所としての)
 
で仕事に就いていた。
 
当時は内職をするための作業場、それに毛の生えたような工場であり仕事を始めてから5、6年ほど経ってはいたが、
 
決まった制服もないため、下はGパンにゴム草履(ぞうり)、上は高校の体育の時に着ていた白い長袖の運動シャツ
 
が、私の恰好であった。
 
 その姿で日発までリヤカーを引き、行ったり来たり。また日発の工場内で仕事(クリープ処理工程)をしていた。
 
 ある日、父が日発の工場長に呼び出され、
 
「会社の出入りをするのに“あの恰好”ではけしからん。まずい。」
 
との話があり、当時の日発の制服一式、安全靴から上下服、帽子の支給を受けたのだった。
 
 しかし、あの時の私はムッとしていた。
 
『人が一生懸命働いているのに文句があるのか。普段の恰好なんか関係ない、制服なんかどうでもいいじゃないか』
 
と考えていたのだ。
 
 それから間もなく、工場長(当時、川口さん)から今度は親子で呼び出された。話の内容は、
 
「子息まで会社に入れたのだから、現在の状態ではダメでしょう、もうドンドン仕事を増やしていかなければ」
 
と、応接室で発破(はっぱ)をかけられたのだ。
 
これが私の駆け出し時代のスタートであった。
 
 

アキトの履歴書 23

2009.09.11

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(ルーキーズ 2)
 
 マラソンと言えば、4月には村のマラソン大会があり、これには一度出場した。
 
確か、昭和38年の伊那峡をスタートするレースであったと記憶している。この時は2着であった。
 
 その翌年、昭和39年には東京オリンピックが開催され、兄の世話で代々木の国立競技場で
 
陸上競技を観ることが出来た。この時が私にとって、東京初上りであった。
 
 100メートルでは当時、“人間機関車”の異名を持った黒人選手の、ジョン=ヘイズの活躍を観ることが出来た。
 
トラック競技では、ソ連の女性選手を筆頭に美女が走る様や、黒人選手が躍動感いっぱいに走り廻る姿、
 
その肌と白いパンツのコントラストが今でも脳裏に焼き付いている。
 
 その後、東京から帰って来てからも白黒のテレビではオリンピック一色である。
 
男子マラソンを観ていると、アベベに続いて2着でトラックに戻って来たのは、何とルーキーの“円谷幸吉”であった。
 
 自衛隊体育学校出身の彼は、トラックを周回しゴール手前で後続のランナーに抜かれてしまうが
 
3位の大活躍であり、涙が出るほど感動した。今でも強烈な印象があるほどだ。
 
 あの頃の日本にとって、大ヒーローの誕生であった。
 
 立ち戻って、私の話。
 
マラソンで優勝した感動と同時に、実はその逆で、運動会でドン尻になっての恥ずかしい思い出もある。
 
 姉と一緒にリンゴの皮むき早食い競争に出たのだが、
 
常日頃の習慣か、姉はリンゴの皮を“馬鹿正直”に丁寧に薄くむくのである。なかなか食べるところまで行かず、
 
これまた大変なことになってしまった。
 
 他の選手は要領よく、手早く、皮を厚くザクザクとむいて、どんどん先に行ってしまう。
 
もう、私たち以外誰も居なくなってしまった。なのに、まだ皮むきは終了しないのだ。
 
とうとうダントツのビリとなってしまったのだが、あの時はあれで楽しい思い出の一つとなっている。
 
 

アキトの履歴書 22

2009.09.10

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(ルーキーズ)
 
 高校を卒業した昭和37年の秋。
 
商工会主催の村の加入者全体の運動会が、小学校のグラウンドを借りて行われていた。
 
 当時の小木曽製作所の働き手は少人数で、女性が主体であり、出場できる種目と言えばパン食い競争、
   
満水リレー、借り物競争、障害物競争、リンゴ皮むき競争(早食い)位。
 
 それらも終わり、午前のメインにマラソン(太田切橋までの往復)があった。
 
 ウチは若い人も少なく、あまり良い成績が出せなくて参加賞ばかりであった。
 
私は足に自信があったので個人で出場出来る種目はほぼ全て出て、賞品稼ぎをしていた。
 
 高校出たての私は参加者の中では無名であったが、太田切橋までの往復位はまだ走れると思い、そのマラソン、
 
40人ほどの中へ飛び入りで出場することにした。
 
 過去の回から日発、タカノに在籍している先輩諸氏が有名だった。
 
私自身、一般の人たちに混じって走るのは初めてだったので、若干の不安を感じての参加である。
 
グラウンド中央からスタートするのだが、どんな塩梅かわからない。
 
とにかくスタート直後は最後方から追走することにして走りだした。
 
 テレビ馬のごとく駅前を過ぎる頃は、集団は私より遥か前方を行っていた。
 
私は自分なりのペースで追走していった。
 
河原町を過ぎる頃、ようやく2人、それから5人とうまいこと抜いて進んだ。駒ヶ原の坂を上り切ったところで
 
だいぶ自信がついていたので前に見えるうちは抜いて行こうと考え、ピッチを上げて走って行った。
 
下りの坂で前方に見えていた大方の人を抜き去っていたが、まだ前に何人かいる様子。
 
橋のたもとで手首にスミを付けてもらい復路になった。
 
 太田切の坂の上りにかかって、また何人か抜いたのだが、その先の駒ヶ原、里宮神社の辺りまで進むと
 
知らぬ間に前に人がいなくなってしまった。
 
少しペースを落として走ってみたりして、どうやら私がトップになってしまったのだとようやく気がついた。
 
どうしよう、どうしようと思いながら走っていく。2番以降をだいぶ離してしまったようだ。
 
銭屋さんを過ぎ、末広町へ入るところで後方を振り返って見たが誰の姿も見えない。
 
どうやってグラウンドへ入って行ったら良いのか。初めての事で何とも変な感覚だった。
 
末広町を上りきったところで、また後ろを振り返るも誰も見えず。“ええい、ままよ”と腹に決め
 
グラウンドに戻って行ったのである。
 
“優勝。こんなに簡単に1着で良いのか”
 
気恥ずかしい想いが先に立っていた。
 
 会場ではどよめきが起こり、会社のおばさん達を始め、父母もびっくりするやら大騒ぎである。
 
 その時の優勝賞品は炭俵1つとキッチン棚のセットで、その運動会の中では一番の品だった。
 
 この後、他の会社の方から諏訪湖一周駅伝に出て欲しいとの依頼があったが、
 
「私は小木曽製作所の人間ですので」と辞退したのも思い出に残っている。
 
 

アキトの履歴書 21

2009.09.01

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駅伝 2)
 
 私の走る区間は何故か最終。アンカーであり、一番長い区間だった。
 
襷(たすき)中継地点は梓橋の手前、そこから長い橋を越し、途中上り坂を経て城下町へ入り、
 
松本城の中にあるゴールを目指した。
 
 50校を超す参加チームがそれぞれにウォーミングアップをして待っていた。
 
他校の選手の足がすらっとしたカモシカの足に見えた。
 
20校くらいが中継地点に来たが、まだ、我が高校の姿が見えずヤキモキしていた頃、
 
ようやくその姿は視界に入ってきた。
 
自分が襷を受け取る前に、ランナーの集団が通り過ぎていくのを見ていた私は、
 
“よし、追いつき追い越せ”と自分に言い聞かせて、襷を受け走りだした。
 
 しかし、さすが長いエース区間である。思い通りに追いつける訳もない。
 
橋を過ぎた頃に前の集団に追いつこうと考え少し飛ばしたつもりであったが、そこは各ランナー思う事は一緒であり、
 
走りだしての最初なのだから、皆、気力体力は漲り(みなぎり)、思い通りにいかないどころか
 
順位を維持するのが精一杯という心境になってきた。
 
 しばらく走って城下町に入る手前の上り坂が見えてきた時、前との距離が少しずつ縮まってきた。
 
“よし、何人かバテ気味の人がいるわい。これはチャンス”と気持ちを入れ走っていく。
 
ここまで来ると少しの上り坂でも足にきていると感じてはいたものの、それでも頑張って1人抜き2人抜き、
 
うまいこと上にいけると思ったが、そこは各校のエース揃い、区間であった。
 
 結果、6人抜いたが7人に抜かれ、私は順位を1つ下げてゴールした。
 
 松本の市街地、城の近くまで差し掛かるとすごい応援の人だかりで走る道路が見えないほどであった。
 
沿道の人々から「赤穂ガンバ!」と声をかけられ、背中を押され、叩かれて、その間を走り抜けていく。
 
かなりの感動を覚えた。
 
しばらく人込みを進むと、前が開けた。そこがゴールである。
 
 あまり早い順位とは思わなかったが、それでも一応ゴールテープを張ってくれていたので
 
私なりに嬉しいフィニッシュだった。
 
 その時、偶然ゴール地点で加藤さん(加藤理容の前主人)にバッタリ出会った。お互いにびっくりした出会いであった。
 
 その年(昭和36年)の秋の高校駅伝は地元、高遠から伊那を結ぶコースで行われた。
 
これにも臨時の雇われ選手として出場した。
 
この時もやはり一番長い区間(7.6キロ)高遠駅から上農高校(旧 所在地)までを走った。
 
地元であったので陸上部員が自転車で併走し、直線で前方まで見えた際、
 
「それ!追いつき抜け!」と叫ばれたのだが、遥か遠くに見えるまま。
 
後続を抑えて順位キープするのがやっとである。
 
 思い返せば、当時は上農高校が全国大会出場の常連校であり、伊藤国光選手(後にカネボウへ)という
 
一流ランナーが生まれた時期でマラソンの黄金時代でもあった。
 
 

アキトの履歴書 20

2009.08.31

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駅伝)
 
 日本の駅伝と言えば、正月の箱根駅伝(大学生)を始め、最近はニューイヤー駅伝(実業団)に代表されるように、
 
世界でも特に日本の文化と言われる位人気が高く(EKIDEN)、TVでも終始、生中継で放映されその注目度は高い。
 
 私の中学生時代には、各クラスで代表チームを組み村内一周のクラスマッチがあった。
 
 中2の時は第1走者として出場した。スタートと同時に赤尾先生が自転車オートバイに中学の校章旗を立てて
 
先導者として走りだした。
 
 その時、上級生で短距離走が得意であったTさんが、その先導のバイクを猛烈なスピードであっという間に追い越して、
 
当時の中学校の入り口通路を右折し、一般道路に消えていってしまったのには驚いた。
 
 とてつもなく早い人がいるもんだと感心して走りだしたのだが、
 
桜木町を西に抜け、銭屋さんの所の本通りを南に曲がると、何と。
 
Tさんは歩いていたのだった。皆に抜かれていくその姿は、まさに“テレビ馬”そのものであった。
 
 思い出しついでになるが、高校2年の時に赤穂の街中を走った際、前を走る何人かを抜いて
 
更に前を走っていた上級生を捉えかけた時の事。その先輩ランナーには自転車で伴走者が2人ほど付いていた。
 
その2人から、
 
「おい、お前。先輩を抜く気か?」
 
「抜くなよ、抜くなよ」
 
と、声をかけられたのだ。もちろんジョークではあったが。
 
 今でも駅伝やマラソンを観ていると、ふと思い出す。不思議と記憶に残っているものだ。
 
 新聞配達で鍛え抜かれた身体は自分でもびっくりするほどであった。
 
知らず知らずのうちに足腰、心臓等への素晴らしいトレーニングになっていた。6年間は辛い時もあったが、
 
お金にもまして素晴らしいものを私は得ていたのだ。
 
特に持久力、耐久力はバスケットボールを通して強く実感していた。
 
 昭和36年、高校3年の春の県下高校駅伝大会にも、そのためか出場出来たのだろう。
 
 当時の赤穂高校の陸上部員では長距離を走れる人員が不足で、大会に出場したいが、どうしても1人足りない。
 
クラブの顧問の間で推されるのではと噂になっていた私に、
 
「是非とも出場してもらいたい、参加チームのメンバーに加わって欲しい」
 
と話がきたのだ。
 
無論、高校代表ということで、恥ずかしながらも引き受けたのだった。
 
 その年の春の高校駅伝のスタートは大町から、松本城までのコースだったと記憶している。
 
前日、米3合を持参し松本まで行き、バスで大町まで逆に下見がてらコースを辿り、大町に前泊した。
  
 
(不定期で連載。回数は未定)