小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 19

2009.08.28

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(厨房に入れず)
 
 言い訳がましくて恐縮だが、私の上には姉が5人も居たため、日常の炊事、洗濯、掃除等の一切の家事は、
 
女のするものだと小さい頃より思っていたので、それまで全くしたことがなかった。
 
 ただ一度した家事と言えば、高校受験の日。その日、私は半日で家に帰って来た。
 
見よう見まねで妹とドーナツを作って食べようと考え、メリケン粉を練って伸ばしたところに、
 
湯呑み茶碗の飲み口側の円と底の円でもってドーナツ状に加工してみた。
 
それがまた上手いこと輪に加工できる。1、2個試しに油で揚げて食べてみたが、旨く出来た。
 
『こりゃいいぞ』と一度にたくさん作ろうとした事が、間違いであったと後になって気づく。
 
しばらく天ぷら油の入った鍋を加熱したままの状態にしてしまったのだ。
 
ドーナツもどきがたくさん用意できたので、さあ仕上げとばかりに何個かをその鍋に流し入れた瞬間
 
「ボカーン!」
 
 そのけたたましい音と同時に、お勝手場じゅうに鍋の中身が全て飛び散った。
 
妹は、顔を両の手で押さえて、その手を決して放そうとしない。
 
猛烈に熱せられた油をまともに顔に浴びてしまったのだ。
 
私とて手や腕にヒリヒリとやけどを負ったのだが、それどころではない。妹の姿を見て、私は途方に暮れた。
 
 手をどけて診たくても診ることさえ出来ない。
 
どえらいことになってしまった。
 
 それから家に戻った母にこっぴどく怒られた。
 
「大切な女の顔に大やけどで嫁に行けなくなるではないか!」
 
と大変責められたが何も言えない。
 
 本当に悪いことをしてしまった、つくづくいぢむさなことと、それ以来、家事はしたことがない。
 
この事は妻には誠に申し訳ないが出来ないのだ。
  
 すぐさま母は、医者と、やけどの治る祈祷をしてもらえる中村福太郎氏の家(町三区)へ妹を連れて行った。
 
小学生の妹は学校も休み、大騒ぎとなった。次の日から妹の顔はまさにやけどのひぶくれた状態で
 
“お岩”のようであった。
 
(面と向かうことは出来なかったが)その後、妹の顔のやけどはきれいに治り、私はほっとした。
 
しかし、未だに油鍋には恐怖を感じる。
 
 お世話になったまじないの福太郎さんが、私の妻、よう子のおじいさんであったとは、
 
この時点では知る由もないのだが、大変感謝している。
 
 

アキトの履歴書 18

2009.08.21

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(内職工場)
 
 高校卒業の頃(昭和38年)は、住居の一室のお座敷工場から、宮田の駅の踏切りのすぐ西にあった現場小屋
 
(旧渋谷林業の材木置き場)を買うことが出来、工場として本格的に仕事が出来る体制を作り始めた頃であった。
 
 当時の小木曽製作所は手加工品の量産しか対応できず、機械設備もなかったため、手がけていたものは、
 
澤藤電機向けの圧縮弁ばね一辺倒であった。(50∞、60∞用)
 
 冷蔵庫用のそのばねは、ドイツのエンゲル社の特許品に使用されていた。
 
電気を流すとばねが動き、それにより圧縮されたガスを利用して冷やすという機能の部品である。
 
家庭用、業務用、自動車にも使用されていたもので、“つい最近まで”世に出ていたのではなかろうか。
 
 現場小屋を改造した工場は、道を挟んで日発の正門の真正面に位置していたため、
 
下請けとして近くて便利さはあったと思う。
  
それは小木曽製作所においても。
 
 圧縮ばねをクリープテンパー工程(注1)にかけるにも、熱処理する設備すらなかったため、
 
リヤカーに製品を乗せては日発の構内、会社を行き来し、設備を使用させて頂き熱処理をしていたのだった。
 
 
 
(注1) 圧縮ばねを製作する時、ばねの高さに十分余裕をもって作り、締付け工具で密着まで締め付け、
 
クリープテンパー温度で適切時間過熱後、あらかじめへたりを十分起こさせてしまう方法。
 
 ある条件下でばねを使用する時、“へたり”が発生する場合があり、これを防ぐ方法として、
 
ばねにあらかじめ使用荷重以上の力を加えて“へたり”を取り除く方法が用いられる。(=セッチング)
 
 使用温度以上に熱した状態でセッチングをするのは「ホットセッチング」と呼ばれる。
 
 ばねを冶具や締付け工具等で、所定の荷重位置や密着まで締め付け・固定した状態で熱処理を行う方法が、
 
「クリープテンパー」と呼ばれる工程である。
 
 

アキトの履歴書 17

2009.08.17

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(父と家族 3)
 
 繰り返しになるが、父が九州から帰郷してきた時は、日本中が不況の真っ只中であった。
 
東京に出ていた父の弟は二人、一人は警察官、一人は新日鉄に勤めており、その二人に宿の世話を受けながら
 
2ヶ月近く東京中を職を求めて歩き回ったそうだ。
 
その時履いていたゴツイ皮靴は底が抜けてしまったと後で聞いた。
 
 そんな時代だったので宮田に戻りケンメン(後の日発)に入るには
 
何かボイラーの資格でも持っていないとダメだと気が付き、ローソクの灯の下で独り勉強し、通信教育を受け、
 
見事、資格試験に合格。釜たきへの(ボイラー)再就職にこぎつけたのだった。
 
 その後は日商の関係で“鋼(はがね)”が入手できるため、包丁や鎌等を製作した時期もあったようだ。
 
それが後に、ばねの製造へと変遷することになる。
 
父は線ばね製作の見習い第1号として、何人か部下を連れだって横浜本社へ出向き、教育され、
 
ばね職人として歩み始めたのだった。
 
それ以来、ここ宮田には線ばねの工場である日発伊那工場があり、現在に至っている。
 
 次女と四女の姉二人は、私が高校へ行くと同時に結婚し、伊那町へと嫁いでいった。
 
それまで、次女は日発に検査員として勤めており、四女は内職工場を始めていた我が家に呼び寄せられていた。
 
 後に聞いた話だが、父はその頃から始めていた内職工場を、姉に婿を迎えて一緒にやっていこうと考えていたようであったが、
 
二人ともに逃げるように嫁って行くことになり、見事に思惑が外れたのだった。
 
そんなこともあって私に、高校を出たら家に残って仕事を手伝ってほしいとの事情が発生したのだろう。
 
そのために高校の2年になる直前に、担任に話をし、将来に“タガ”をかけたのだ。
 
結局、私は高校を出てすぐに家に残った。
 
 一つ上の五女の姉は、高校卒業後、宮田の郵便局へ就職した。その際、村役場の試験にも受かっていたため、
 
当時の浦野村長に詫びを入れ、局の方へ就いたのだった。
 
弟と妹はそれぞれ高校を卒業し、弟は東京に、妹は岡谷へと単身住み込みで就職した。
 
 卒業後、父の手伝いを始めていた私の、「なんで俺だけがこんな田舎にくすぶってしまったのか」との想いは強く、
 
親にもたびたび反抗した。
 
当時、高卒の初任給は7~8千円、高いところだと1万前後ももらえたようだが、駆けだしの家内工場では、
 
それはもう極貧状況で、私の賃金は1ヶ月500円しか貰えずじまい。
 
これでは新聞配達していた学生時代の1300円のアルバイト代の方がはるかに良かったという有り様。
 
悔しくて情けない、それが現実だった。
 
 だから四女の勇子(いさこ)姉も初期の頃であったから苦労したのに違いない。
 
賃金は従業員の方へ最優先で回され、少し残ったとしても、とにかく設備が何もない状況であったので、
 
全てがそちらに振り向けられ、設備に化けていったのだった。
 
 

アキトの履歴書 16

2009.07.17

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(父と家族 2)
 
 私の父と母は、実は遠縁にあたる同じ小木曽の姓同士で結婚したのだった。
 
母は津島様(神社)の前で昔、料亭をやっていた塚本の家の子(男兄弟4人と娘一人)その箱入り娘であった。
 
箱入り娘といっても、その後、宮田村も大不況で製糸が全滅したため、
 
料亭や芸者置き屋も軒並み倒産の憂き目にさらされた時代へ向かう過渡期であったと思われる。
 
 親同士が話し合い、
 
「本家の傳章(ただあき)は家は貧乏だが頭も良く、良い男だから結婚しろ」と言われて一緒になったそうだ。
 
母は、それまで顔も知らない、話をしたこともないその人=父と、結婚当日になって初めて顔を合わせたのだった。
 
昔の人は親の言うことは絶対だったのだ。
 
 私は「章人」(あきと)と名づけられた。
 
当初、父は「章八」(しょうはち)と名づけようと思ったようであった。
 
が、よくよく数え、見直したところ(子供の生まれ順、数が)7番目であったので二男として“人”を付け
 
自分の字を一文字加え「章人」としたらしい。
 
 九州に居付いた叔父夫妻には子供がなかったため、私が生まれて2、3歳の頃に姉が養女と行くことになった。
 
その際、一人では可哀そうだと、長女と三女の二人が中学生になる頃、九州へもらわれていったのだった。
 
後に聞くと、九州の姉は学校が終わるのを待っていて農作業を手伝わされたそうだ。
 
残った次女と四女は、中学を出るとすぐに紡績工場へ就職した。当時は戦後の復興にかかった頃。
 
製糸や織物で日本中が活気づいていた。百姓は皆、お蚕を育てる。勢いのある時代であった。
 
我が家は非農家(ひのうか)と言われた。
 
食べ物も少なく、それでも裏の畑で少しばかりであったが色んな野菜を作ったりもした。
 
長男は旧実業高校(後の赤穂高校)を出て、すぐに東京の商事会社に就職(日本橋のビル)し、社宅暮らしだった。
 
その後、私のすぐ上の姉(五女)からは何とか高校に出してもらえるようになった。
 
私たちの年代は、後に「団塊の世代」と呼ばれ、戦後復興の良質な人材となるべく、社会へと旅立って行ったのだ。
 
 

アキトの履歴書 15

2009.07.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(父と家族)
 
 私が生まれた時、すでに上には5人の姉がいたことは前述したが、更にその上には、長男の章薫(あきしげ)がいた。
 
私とは13も年が離れていて、両親が九州に居た、昭和5年に生まれた。
 
私の下には弟、妹が1人ずつの計3男6女の9人兄弟となっていた。
 
 母は“貧乏してても川の字に寝かして苦労しながらも育て上げたよ”とその情景を思い出し、
 
後によく自慢げに話をしていた。
 
 私はと言えば、小学校に上がる際に家族構成を書いて出す用紙が1枚では書ききれなくて困ったことを思い出す。
 
それでも何とか家族の名前は全て書いても、兄弟の生年月日までは流石に覚えておらず、その都度母に聞いて書いていた。
 
私のところまでは2つおき(みつぶせ)であったかと記憶している。
 
 父は小木曽家の長男として生まれた。長男は早く仕事に就いた方が良いとの事で、
 
叔父と一緒に、当時3,000人もの女工を使っていた九州の大きな製糸工場に勤めていた。事務方の仕事をしていたようだ。
 
 その頃の父は当時の工場長に気に入られ、よく連れだって酒の席について行き、
 
いわゆる芸者をあげての宴席にも頻繁に通っていたそうだ。
 
 そのせいか、後に日発関係の偉い方との宴席では“どえらい盛り上がった”ようで、
 
「小木曽君はどうして、何処で(このような宴会芸を)覚えたのか。
 
並の人間ではとても出来るものではないのだが」(宴会通=お金がかかる)と一目置かれていたそうだ。
 
小唄、詩吟、都都逸(どどいつ)さのさに始まり、様々な宴会芸は相当なものだったようで、
 
私も同席した時に何回か聞いたことがあったが、本当にびっくりしたものだった。
 
 タカノ会長、駒ヶ根電化の会長さん達とは似た年代で(父の方が若干年上のようだったが)馬があったようだった。
 
この点では、私は母に似て酒は量が飲めず、下戸であったため敵わなかった。
 
父が亡くなって間もない頃、駒ヶ根電化へメッキ依頼の品を持ち込んだ時には、会長さんが私を呼び止め、
 
わざわざ事務所へあげて下さり、お茶まで頂きながら父の生前の話をして下さった位だった。
 
 父達の九州での生活も、日本中の製糸産業の衰退が始まった頃と重なり、例に洩れず倒産に追い込まれて、
 
会社で積み立てていたはずの社内貯金もパーになり、残ったものといえば、長たんす一棹くらい。
 
そのまま生まれ故郷に帰って来るしかなかったのだった。
 
その時には叔父は九州の人と結婚しており、宮田に帰ることはなく九州に居付いたのだった。