小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 30

2009.11.07

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し 7)
 
 旋盤(せんばん)改良でのパテント巻きの専用機も導入した。
 
メーカーは特巧(とっこう:名古屋)の巻込み専用機で、線径4φまで加工可能である。
 
 当時、日発では長いピッチの先棒をコイルの間に押し込んで数量の少ないロットは巻込みを行っていた。
 
ウチの専用機はギヤを4枚組み合わせて回転数を調節して送り、円盤型のカムで1ヶ毎、座巻きの付いた状態で
 
連続して巻く方式のものであった。
 
 この時、私は初めて、手動の計算尺の使用方法を身につけなければ段取り換えが出来ないため、覚えることとなった。
 
 連続で巻いた品を熱処理後1ヶ毎、目視で切断する事も覚えた。
 
フートプレスはお手のものであったが太いものはプレスで、それも目見当で切るのは少し集中力を要した。
 
 上刃と下刃をバネの線径の中央に正確に当てないとキズやミスとなり困る事になる。
 
1ヶずつバランス良くカットした後は全数丈見(たけみ)をし揃えて、日発へ出荷する。
 
B2(熱処理)⇒研摩⇒完成の工程であった。
 
 私は仕事を覚えるのに夢中で、単価の事は全く気にもしていなかった。
 
それから一年ほど経ち、自分の仕事がどのくらいになるのか(金額が)気になったので私なりに計算してみた。
 
全てではなかったがウチの売価が図面や伝票に書いてあり、計算はすぐに出来た。
 
材料は有償支給だったので倉庫に問い合わせ、図面に示された単重で1ヶあたりの材料代を算出した。
 
差し引きした分が私の仕事で作った品物の付加価値(粗利)であるはずだ。
 
 受注品の粗利単価を個別に出してみたところ、何と、半分以上が材料代を売値から差し引くと、
 
ゼロ、もしくはマイナスになってしまう。
 
逆ザヤ!
 
私は愕然とした。
 
これでは何のために働いているのか判らない。親会社もひどいことをするものだと憤った。
 
 

アキトの履歴書 29

2009.10.26

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し 6)
 
 それからは小糸製作所向けの引張りばねをよく作った。
 
その類(たぐい)の品が新幹線に採用され、当時、日発の自慢話になっていた。
 
数量の少ないものは手加工、数量の多いものはプレスでフック加工をしたものだ。
 
 中でも本田向けのブレーキシューSP(スプリング)は、当時右肩上がりの製品で、大変な量産数量になっていた。
 
 だが、対応は人海戦術だったから大変な事になっており、
 
ようやく、旋盤巻きからコイリングマシンの生産へと移行した。
 
 これがウチのコイリング導入の最初であった。
 
大手メーカーの製品は、設計から事細かに規格設定されており、組立に至るまで量産の数量が多大である分、
 
1ヶでも規格外=不良と判定されればロットアウトとなり、その場合は、
 
全数選別をするか代替品に全て入れ替えるか、いずれにせよラインストップは許されない。
 
 全数保証を余儀なくされ、部品メーカーとして常にプレッシャーを感じながら
 
対応する事が下請けを継続できる事であり、とても大変なことだった。
 
 嫌でも個々の生産品の製造工程や技術の改善、改良をして安定供給に繋げる努力が必要であった。
 
 

アキトの履歴書 28

2009.10.10

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し 5)
 
 あの頃の小木曽製作所の主要生産品は、澤藤電機向けレゾナンスで、関東向け、関西向けと
 
電気の(発電機の)特徴により50∞、60∞用の2種類。
 
 線径のわずかな違いのそれは、毎日1,500ヶ前後の仕上げ数量が、完成品のノルマとされていた。
 
 当時、ウチではクリープ工程に2名、面取り、バフ研磨(注2)に2名、仕上げ・修正に6名と、
 
日発への往復をする1名の計10名程で、1日分の完成数量が確保出来るまで、
 
残業を1、2時間ほどするのが常だった。
 
 特に、ばね定数(じょうすう)の規定がシビアだったので、巻き込み(これは日発で行われた)の度に試作をし
 
生産ロット毎に流すのだが、その都度若干の差が出て、座巻きのピッチの微妙な違いがバラつきの原因となり苦労した。
 
現在のようなNCマシンはもちろん無いので、座巻き部のピッチのバラつきが
 
どうしても仕上げ時に検査で問題となってしまい、毎日が試行錯誤の連続であった。
 
 また、どうしても作業者1人1人のハシ修正には癖があり、その結果に差が出てしまう。
 
たびたび検査で荷重不良となり、これには手を焼いた。
 
 研磨の焼付き除去やバフ研磨と私も鼻の穴を黒くしてやったものだ。
 
その製品も数年後、今度は単価の値下げに苦しむ事になった。
 
 そのために私は工程変更を提案した。
 
ワイヤブラシでの焼付き除去とバフ研磨を省略出来るよう工程順序を変更する、つまり、
 
“ショットピーニング(注3)前に研磨・面取りを行い、ピーニング処理後にクリープ、修正”としたことで
  
その目標は達成出来た。
 
 提案内容を何度も交渉して了承して頂いた事で、加工の負担はその分軽減した。
 
バフ研磨を無しに出来たので鼻の穴は黒くならない、工場内のホコリも無くなった。
 
 人手が少しでも余れば、また次の新しい仕事を入れた。父が旋盤で巻いた品を私が寸法取りで切断し、
 
後工程でフック加工をし引張りばねを完成させる事も始めた。
 
 
(注2)バフ研磨:金属表面をきれいにする加工法。
 
綿布・麻など、柔軟性のある素材で出来たバフに砥粒を付着させ、
 
このバフを高速回転させながら被加工物に押し当てて表面を磨く。
 
 加工バフは軟らかいため研磨面に多少の段差があっても研磨できる。但し、この加工では寸法精度を向上させたり、
 
平坦度を良くするほどの加工量は得られない。
 
 
(注3)ショットピーニング:この処理はばねに小さな鋼球(ショット)を高速度で無数打ちつけることで
 
①表面に圧縮の残留応力を生じる ②表面層に加工硬化を生じる 等により、ばねの耐疲労性が向上する。
 
 但し、ショットピーニングは一種の冷間加工であり、材料の降伏点が低下するため、
 
ばねはヘタリやすい状態になっているので、処理後に低温焼鈍(熱処理)をし、
 
材料の降伏点を回復させる必要がある。
 
 またショットピーニング処理されたばねは、非常にサビやすいため、防錆処理を早くしなければならない。
  
 

アキトの履歴書 27

2009.09.25

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し 4)
 
 心機一転はしたものの、現実は、新しい仕事に取り組もうにも、
 
ウチ(小木曽製作所)は設備的に全く無いものばかりだったので、事業拡大したくても
 
本当に思うようにいくはずもなく、大変な挑戦だった。
 
 我が家は農家でもないから田畑はもちろん無く、機械設備一つ購入するのに先立つもの、
 
お金も、何もかもがなかった。
 
黙っていても、父の苦労は目の当たりにしていた。
 
“ああ、田んぼの一枚でもあれば、プレスの1つや2つ直ぐ買う事が出来るのに”
 
と悔しい思いをしたものだ。
 
 当時、銀行では土地本位制が定着しており、土地を担保にすれば相当の融資を受けられたのだ。
 
我が家の財産らしいものは古屋のみだったから、次から次へ設備導入という訳にはいかない。
 
 そこには、他人にはわからない大変な苦労と、それ以上の歯がゆさがあった。
 
普通の会社であれば1、2ヶ月で設備できるのに、ウチでは3~5年。どうしても遅れてしまう。
 
 そんな状況の中、駆け出しの私は、テンパー炉の設備を借りて熱処理をするために、
 
ウチから日発の現場へと行ったり来たりの毎日であった。
 
“いやだ”と思いつつも『ガマン』という事を余儀なく覚えさせられた。
 
 慣れてくると現場の“オジサン”に、
 
「今度来る時はタバコ買ってきてくれ」
 
「牛乳買ってきてくれ」はチョイチョイだったが、
 
「はい」
 
「はい」と応じた。
 
少しでも快い関係でなければ、私の仕事はスムースにいかなかったのだ。
 
 そんな些細なことでも続けていれば、そこは互いの人間関係が良好になっていくものだと感じていた。
 
 いつしか、こちらが押し掛けた時には“急ぎの仕事”と判っているので
 
「オウ、よく来たな。今すぐ設備開けてやるから、すぐやれよっ」
 
と、気を使ってくれるようになったのだ。
 
 私は本当に嬉しく、また、仕事も早く順調にこなせる様になっていくのを実感し、感謝するようになっていた。
 
 この後、私でなく代わりの人が行ってもスムースに熱処理が出来るようになり、作業の流れは格段に良くなった。
 
最初の頃の知らんぷり、すっぽかされた苦労を思えば大変な進歩で、
 
“苦労は買ってでもするものだ”とはよく言ったものである。
 
 

アキトの履歴書 26

2009.09.21

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(駆け出し 3)
 
 日本発條㈱伊那工場(宮田村にある)は宮田にあっては唯一の大手企業であり、分工場と言えども
 
上伊那地区においては特別な存在であった。
 
 それ故、経済的にはもちろん政治的にもその影響力は期待されており、国政選挙にあっても
 
地元企業出身の国会議員の応援を歴代の工場長がしていた。
 
 駆け出しの私にとっては、政治や経済のことなど何もわからず、世の中の何もかもに音痴であった。
 
 だから、日発の川口工場長(当時)が海外工場(現在のタイ工場)へ赴任する旨を、
 
チラッと話されたのには正直驚いた。
 
 大手企業はあの時代からすでに海外工場進出の目標や、
 
グローバル化の対応を始めていたということだったのかと察するが、
 
あの頃の私には、ただただ不思議でならなかった。
 
 いずれにせよ、考えるレベルが井の中の蛙の私とは“どえらい違う“と思ったのだった。
 
 当時、父が私に話した「寄らば大樹の陰で良いのだ」という意味が、少しだけ理解出来たような気がした。
 
 けれども、下請け仕事そのものに対しての私の印象は、余り良いものではなかった。
 
しかし、食べて生きていくには何かしら仕事をして稼がなくてはならない。
 
 折しも、父と意見がどうしても合わないために私はストライキを決行した。
 
あの頃、バイクが流行り始めた時代で、
  
「(不満がある。その代わりに)バイクを買ってくれなければ仕事はしない」とダダをこねたのだ。
 
 ところが、思いがけず本田の55CCのバイクを買ってくれたので、仕事を続けることにしたのだった。
 
 この時、父から出た言葉は、
 
「日発は大企業である。今後もし不況になっても日発は最後まで残るだろうし、
 
万一、日発がつぶれる時は日本中が全てつぶれる時だ。だから、辛抱して仕事を覚えてやってくれ」
 
であった。
 
 この時、私はようやく納得をした。
 
これでやる気を出し、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ、と再び腹を決めて、仕事に取り組むようになった。