小木曽のバネブログ

進化はしないが、変化はできる。できる男になってやる。

アキトの履歴書 15

2009.07.16

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(父と家族)
 
 私が生まれた時、すでに上には5人の姉がいたことは前述したが、更にその上には、長男の章薫(あきしげ)がいた。
 
私とは13も年が離れていて、両親が九州に居た、昭和5年に生まれた。
 
私の下には弟、妹が1人ずつの計3男6女の9人兄弟となっていた。
 
 母は“貧乏してても川の字に寝かして苦労しながらも育て上げたよ”とその情景を思い出し、
 
後によく自慢げに話をしていた。
 
 私はと言えば、小学校に上がる際に家族構成を書いて出す用紙が1枚では書ききれなくて困ったことを思い出す。
 
それでも何とか家族の名前は全て書いても、兄弟の生年月日までは流石に覚えておらず、その都度母に聞いて書いていた。
 
私のところまでは2つおき(みつぶせ)であったかと記憶している。
 
 父は小木曽家の長男として生まれた。長男は早く仕事に就いた方が良いとの事で、
 
叔父と一緒に、当時3,000人もの女工を使っていた九州の大きな製糸工場に勤めていた。事務方の仕事をしていたようだ。
 
 その頃の父は当時の工場長に気に入られ、よく連れだって酒の席について行き、
 
いわゆる芸者をあげての宴席にも頻繁に通っていたそうだ。
 
 そのせいか、後に日発関係の偉い方との宴席では“どえらい盛り上がった”ようで、
 
「小木曽君はどうして、何処で(このような宴会芸を)覚えたのか。
 
並の人間ではとても出来るものではないのだが」(宴会通=お金がかかる)と一目置かれていたそうだ。
 
小唄、詩吟、都都逸(どどいつ)さのさに始まり、様々な宴会芸は相当なものだったようで、
 
私も同席した時に何回か聞いたことがあったが、本当にびっくりしたものだった。
 
 タカノ会長、駒ヶ根電化の会長さん達とは似た年代で(父の方が若干年上のようだったが)馬があったようだった。
 
この点では、私は母に似て酒は量が飲めず、下戸であったため敵わなかった。
 
父が亡くなって間もない頃、駒ヶ根電化へメッキ依頼の品を持ち込んだ時には、会長さんが私を呼び止め、
 
わざわざ事務所へあげて下さり、お茶まで頂きながら父の生前の話をして下さった位だった。
 
 父達の九州での生活も、日本中の製糸産業の衰退が始まった頃と重なり、例に洩れず倒産に追い込まれて、
 
会社で積み立てていたはずの社内貯金もパーになり、残ったものといえば、長たんす一棹くらい。
 
そのまま生まれ故郷に帰って来るしかなかったのだった。
 
その時には叔父は九州の人と結婚しており、宮田に帰ることはなく九州に居付いたのだった。
 
 

アキトの履歴書 14

2009.07.12

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(高校3年生 秋冬)
 
 夏が終わり秋になると(昭和37年 秋)
 
同級生も志望大学を目指し猛勉強する者、求人情報を見て就職活動する者と完全に二分された状況になっていた。
 
 私といえば、大学はやらないと聞かされた後、先生からは学校近くの帝国ピストンならと親に勧めたようだったが、
 
“もうどこにも出さない、すぐに内職工場の父の助けをしてほしい”との事だった。
 
もう私はがっかりで、クラスの友達がそれぞれ夢に向かっていく姿を見ては羨ましく思ったものだった。
 
 親は、私を一旦外に出したら二度と家には戻らないと決めてかかっていたのだった。
 
自分の力を外の世界で試したい、挑戦したいという夢すら持てないのかと、私は心底むしゃくしゃしていた。
 
 気賀沢君は、兄が東大へ行ったから俺は京大へ行くというし、酒井君は北大、片桐君は法大、平沢君は防衛大、
 
野球をやっていた小出君は駒沢大・・・、自分以外の皆には夢があるような気がした。
 
それでも高校は卒業しなければならない。私は、日本・世界経済の「株」をテーマに卒業論文を書き、提出した。
 
それに担任の松沢先生はいたく感心したらしく、私に、「物質尊重より人間尊重へ」という小冊子を与えて下さった。
 
著者はたしか出光興産を創業された方だったと記憶している。当時、大いに勉強になった。
 
 今に至り、それぞれの道を夢見て挑戦していった級友たちは、どうしているだろうと思い巡らしている。
 
特にあの頃、卒業時は“神武以来のナベ底景気”と言われ、
 
名の知れた企業へ就職しても決して良い状況ではなかったからだ。
 
 野球部の木下君は大昭和製紙へ、唐木君は日立粉末冶金、北島君はトヨタ自動車、大学進学組も先生になった人から
 
コンサルタント企業へ行った人ありと、卒業後もそれなりに情報が入ってきたものだったが、
 
流石に今では、とんとご無沙汰である。
 
ずいぶん昔のようだが、「貧乏人は麦を食え」と言って物議を醸した大蔵大臣もいた。(後に総理大臣になった池田勇人)
 
皆が果敢に挑戦していった、そんな時代だった。
 
『最後の勝利はゴール(決勝点)にあるのではなく、ゴールに到達するまでにいかに努力したかである』
 
 私の目標としての言葉であり、結果だけをみて判断しないこと、と肝に銘じている。
 
 

アキトの履歴書 13

2009.07.08

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(高校3年生 春夏)
 
 昭和37年、高校3年の春になった。
 
バスケ部の在籍者のうち3年生は、商業科の西(西村)と私の2人しか残っていなかった。
 
前年まで2度の県大会出場の実績があった我が部も、ぽっかりと穴が開いた状態のようだった。
 
たった2人でどうしようか。また、それまでの顧問であった二沢先生も長野高専へと転勤し去っていた。
 
 信大から出たてホヤホヤの新任である高山先生が顧問として就いてくれはしたが、いかんとも頼りなく、
 
大変なことになったと感じていた。
 
それでも、駒工の1期生の中に春富中でバスケをやっていた数名、中でも池上、溝上の“西春近組”と、
 
飯島中出身の上山らを加え、レギュラーを組めるようにとチーム編成を考えた。
 
ただ、頼みの西は時々部を休むので、いきおい、全体の練習は私がリードするしかなかったのも事実であった。
 
(この頃は赤穂高校を普通・商業科と、工業科とに分校し、別々の高校とする初期の段階)
 
駒工組は移動して来るので、どうしても練習開始は遅くなった。
 
 私達はボールを扱う前には必ず走り込みをした。
 
美女ヶ森、遠くは光前寺まで走って来てから練習に入るのが常であった。
 
駒工1期生の山口君はよく付いて来て、常に2番だった。
 
 私はもちろん、新聞配達で鍛えたこの足、何キロ走ろうと平気であった。
 
そして、3年の春は女子が県大会出場を勝ち取った。女子は県大会は初出場だった。
 
県大会出場への道は、上伊那大会で決勝まで進み、南信地区で決勝まで勝ち残らないと出場資格が得られない。
 
よって、県大会出場が出来ることは本当に大変な快挙なのであった。
 
 ところが、バスケの高山顧問は全くの素人だったので、私に、一緒に長野まで行って欲しいと頼んできたのだった。
 
期せずして、私は監督代行としてチームに同行し、善光寺に寄ったことも思い出す。
 
 その年の夏合宿に時期を合わせるように、先輩である赤羽さんが部の様子を見に来てくれた。
 
順天堂大学に進学し体育の先生を目指す方であったので教えることは心得ていた。
 
 高校時代は技術的には西春近組とは差があり、常時レギュラーというわけではなかったが、
 
高山顧問よりはるかにバスケには通じており、この時には部としても大変助かった。
 
 私もこの合宿の頃には、1試合で20点台はシュートで得点出来るポイントゲッターとして活躍出来るまでになっていた。
 
そんな時期であったので、試合が楽しみで、面白くて仕方がなかった。
 
対外試合も何回かこなし、夏の南信大会では決勝まで勝ち進むことが出来たのだった。前年に卒業した先輩達は
 
私達が県大会に行けるはずがない、と思っていたらしい。
 
 翌年、私が卒業した年の夏のOB交流会の際には、後輩達の世代が県大会まで行ったと聞いて大変驚き、
 
“誰かそんなに上手い奴がいたか?小木曽!お前か!”と練習試合で知ったようだった。
 
この時ばかりは、バスケットをやり通して良かったと素直に思えた。
 
 

アキトの履歴書 12

2009.06.23

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(高校2年)
 
 高校2年の初夏、(昭和36年)
 
6月から7月にかけて私の住む伊那谷を集中豪雨が襲い、伊南地区の各所で河川の氾濫や崖崩れ、
 
山間部の土砂崩落が次々と発生、重大な災害を被った。空には報道ヘリが飛び交い、救助活動が各所で行われた。
 
 特に中沢、キセ、中川、大鹿の土砂災害は大変なもので、
 
地域部落・集落の存続の危機に直面するほどの状況に陥った場所もあった。
 
 高校でも土曜日の午後から、
 
ジョレン、スコップ等を持参してキセの現場まで生徒会総出でボランティア活動に参加した。
 
この災害の後、現在の宮田村、大久保地区に移住してきた方々がいたほどであった。(後に三六災害と呼ばれる)
 
 私のクラスにはバスケットボール部に入った者は私を含め3人いた。気賀沢君、小町谷君、そして私。
 
皆、バスケットボールは全くの初心者であったが、高校での青春、若きエネルギーをぶつけるべく在籍していた。
 
小町谷君は背も高く、赤穂中学では野球部の4番打者だったそうだ。
 
ちなみに、私のクラスから硬式野球部へ入部したのは木下、小出君の2人であった。私は体格的にも普通であったので
 
野球部でレギュラーは無理と感じ、遠慮というのか、尻ごみというのか、結局行かず終いとなった。
 
ただ、小町谷君が高校に入ってから野球を続けなかったのは何故か、私には分からなかった。
 
色々迷いがあったのかもしれない。
 
 そんな状況の部活動であったが、気賀沢君は、次期赤穂高校の生徒会長に決まっていたので、
 
ボランティアや生徒会活動優先で、練習にも毎日は出られなくなり、休部を余儀なくされた。
 
もう一人の小町谷君も、少しずつ部に参加する日が減っていった。
 
 私はと言えば、2人の分まで練習に明け暮れた。
 
夏の合宿は本当に辛かったが、部の皆と過ごしたあの1週間は私のバスケの技術向上に大いに役立ったと思っている。
 
さすがに、この時ばかりは新聞配達は休ませて頂いた。
 
 また、この頃ギターを買った。合宿時に持ち込むためだった。
 
大学進学の目標がない私は、バスケ一筋に没頭出来たのだと思っている。
 
 当時、赤穂高校には体育館が1つしかなかったため、日によっては卓球、体操、剣道などと共用することもあった。
 
卓球部には宮沢君が入っていて、いつだったか、遊び半分で私が相手をしたことがあった。
 
 その際に私の腕前が上級なのを知った、卓球部の先輩である大村部長が、私に挑戦試合を申し込んできたのには
 
びっくりした。
 
しかし、試合をしても私に勝てる人はいなかった。
 
自画自賛のようだが、特にサーブの技術は特筆ものだったと思う。
 
 先にふれたギターと言えば、部の3年の先輩とのお別れ会にそのギターを弾き、
 
小林旭の歌を歌った(ギターを抱いた渡り鳥、古城)のもいい思い出になっている。
 
 

アキトの履歴書 11

2009.06.14

カテゴリ : ルーツ/アキトの履歴書

 
(バスケットボール)
 
 2年生になってから初めて部活を始めた。(昭和36年)
 
何でも良かったのだが、私は、唯一やったことのないバスケットボールを選んだ。
 
とにかくその時の、青春のエネルギーを、バスケ一筋へと向け、発散させたのだった。
 
新聞配達で鍛えられていた身体のために、走ること、耐久力、持久力はバッチリで自分でもかなり自信はあったのだ。
 
 だが、技術的には全くの素人。ゼロからのスタートとなり、試合に出られるには程遠く、
 
入部して半年間は悔しい思いで、傍から見ることが常だった。
 
 また、当時の3年生、先輩陣は人員も多く、特に西春近の面子は中学生の頃より強くて有名であった。
 
本当に素晴らしく巧い人たちが揃っていた。
 
中学校でバスケをやっていた者が、高校へ行ってもまたバスケを続けるのは、腕に覚えのある者ならば、
  
なおさら当たり前の話であった。
 
 しかし、このまま指をくわえて試合を見ているだけで終わるわけにはいかない。
 
私は他人の3倍練習をすることと決めた。
 
まずは、後輩に追いつき追い越せとの想いで、暇さえあればシュート等の練習に明け暮れた。
 
 目標はとりあえず“飯島中学でエース”だった上山君にした。彼もやはり中学からバスケをやっていたので
 
下手な先輩よりはるかに上のレベルであった。
 
 私はドリブル、ランニングシュート、45°シュート等、必死で練習を繰り返した。
 
その年の3年の先輩達の代は、春、秋の2回ともに県大会に出場した。
 
大会会場が長野の時には、二沢顧問の実家が戸隠の中社で旅館をしてらしたので、
 
特別に戸隠までバスで行って、一泊お世話になった。
 
 ところが、その一泊した際に事件が起こった。
 
その夜、先輩が酒を買って来いと命じ、
 
後輩の私達は言われるままに、その辺りで一軒しかない酒屋へ買い出しに行かされた。
 
先輩達は茶碗酒で、回し飲み、一升を空けてしまったのだが、
 
気配を感じた先生は、ガラッと襖を開けて部屋の中に入ってきた。一気にシーンとなったのは言うまでもない。
 
当然であるが、その場に居た部員全員がこっぴどく怒られたのだった。
 
 それと試合後の帰り道、長野駅近くの食堂で“五目揚げソバ”を初めて食べたことも記憶している。
 
これがまた、実に美味かった。